朝廷や幕府との関係を良好に保った奥州藤原氏最盛期の王「藤原秀衡」ってどんな人? (2/3ページ)
しかし秀衡は義経を助けることを決めました。
その後も、秀衡は義経を養育していましたが、しばらく経ったある日、義経は兄の源頼朝の挙兵の知らせを聞きつけ、自らも参加すべく奥州を出ようとします。秀衡はこれを強く引き留めました。
このように義経の大恩人ともいえる秀衡ですが、義経の兄・頼朝との関係はあまりよくありませんでした。秀衡の持つ財力や兵力、各方面との繋がりを脅威に思った頼朝は奥州藤原氏を潰すべく、たびたび圧力をかけていたようです。
とはいえ、秀衡は対立を避けるよううまく立ち回っていました。
禍根を残さないように手を打つ月日が過ぎ、頼朝と義経の関係が悪化すると、追われた義経が秀衡を頼ってきます。
秀衡は頼朝との関係悪化を覚悟したうえで義経を再度受け入れました。そして義経が平泉に入ったわずか2か月後、秀衡は死去してしまいます。その後の経過についてはご存じの通りです。
ところで、頼朝の圧力も受け流していた秀衡でしたが、彼にも一つ大きな懸念がありました。側室との子である長男・国衡と、正室との子である次男・泰衡との仲が悪かったのです。
そこで秀衡は、国衡と自らの正室である藤原基成の娘と婚姻を結ばせます。
そうすることで、国衡と泰衡の間に義理の親子関係を成立させて争いを回避したのです。また遺言では、義経を主君とし三人で結束して頼朝の攻撃に備えるよう言い遺したといいます。
自分の死後も、禍根を残さないように手を打っておくのは、統治者の鑑と言えるでしょう。