父母の大恩を教えそれに報いる孝の道を説く「仏説 父母恩重難報経」

心に残る家族葬

父母の大恩を教えそれに報いる孝の道を説く「仏説 父母恩重難報経」

番通りならば墓には両親や祖父母が眠っている。お盆やお彼岸、命日といった日は、在りし日に思いを馳せ、改めて自分や子がなぜここにいるのかを考える日でもある。「仏説 父母恩重経」には親の広く深い慈悲が説かれている。

■父母恩重経とは

「父母恩重経」(ふぼおんじゅうきょう)。正式には「父母恩重大乗摩訶般若波羅蜜経」という。釈迦が親の大恩を教え、恩に報いる「孝」の道を説く仏典である。仏典には私たちは父母の愛の結晶として生を受け、育てられて今がある。その恩はあまりにも大きいと釈迦が説いている。釈迦は父母の恩は十種とし、ひとつひとつの詳細が説かれる。 この「十種の恩徳」は以下の通り。

■父母恩重経が説く父母の恩 十種の恩徳とは

1. 懐妊中10ヶ月の間、苦痛の休む時はないため、他に何も欲しがる心も生まれず、ただひたすら無事に産まれることを願い過ごした恩。
2.母は出産の苦しみに耐え、父も祖父母も心を痛めて母子の身を案じてくれた恩。
3. 産む苦しみも子が生まれれば、母はそれまでのすべての苦しみを忘れ、喜びに満ちてくれた恩。
4.数年の間に、花のように美しかった母の顔がすっかり憔悴しきってしまうほどに、乳
をやり育ててくれた恩
5. 冷たい夜も、寒い雪の朝も、乾いた場所は子に譲り、自分は湿った場所に寝てくれた恩
6.子が懐や衣服に糞尿をん漏らしても、自らの手に取って洗いすすいでくれた恩。
7. 子に食事を与えるとき、まず口に含み、不味いものは自分で食べ、美味しいものは子に食べさせてくれた恩。
8.子のためならば、やむを得ず悪事さえも働くことも厭わなかった恩。
9.子が遠くへ旅立ったとき、寝ても覚めても安否を気遣ってくれた恩。
10.自分が生きている間は、子の苦しみを一身に引き受けようとし、自分の死後も、あの世から子を護りたいと願ってくれた恩。

当たり前だと思って過ごしていた日々が、実は父母の広く深い慈愛の下にあったのだと感じ入る内容である。ひとつひとつの恩は確かにその通りであると思えるし、これに報いるために親孝行をするのは当然だと感じる。「恩」と「孝」の大切さを教えられる仏典である。


■父母恩重経は偽経

「父母恩重経」は実はインドの原始仏典には存在しない。いわゆる偽経である。他にもよく知られる「盂蘭盆経」など、親子の人倫を説く一群の経典がありそれらは「仏説孝経」(孝経典)と呼ばれる。仏教が伝来した中国では仏教思想をそのまま受け入れるわけにはいかなかった。中国には既に儒教や老荘思想が根付いている。仏教がインドで生まれた以上インドの土着思想が反映されているのは当然である。日本でも「惟神の道」のちに神道と呼ばれる古来よりの信仰と混じり合い神仏混淆となったように、中国でも仏教伝来の初期には、禅を老荘の思想で解釈した格義仏教などが成立した。そうした中で「父母恩重経」は、人の道の倫理「人倫」を重視する儒教の「孝」の観念を取り入れたものと言われている。

■仏教には孝という観念がない

仏教には「孝」という観念がない。仏教の思想はこの世の執着を捨てることにある。煩悩・欲望はもとより、愛する者ですら、愛する者こそ大切に思い、離したくないと願い、失った時の悲しみは大きい。元々執着しているからこその苦である。そんなものは捨てよというわけだ。捨てるべき世俗のしがらみには家族、縁者などの共同体も含まれる。王子であった釈迦本人からして、国を捨て親を捨て、授かった息子に「ラーフラ」(障碍)と名づけるに至る。徹底しすぎている感もあるが、仏教が無執着、一切空、諸行無常、諸法無我と、現実世界に重きを置かないのは事実である。

こうした一般社会の倫理から逸脱しているように見える仏教の出家主義は、人倫の徳を重視する儒教などから厳しく批判され、仏教排斥論の主な論拠とされた。

「仏説孝経」(孝経典)が作り出されたのは、こうした非難に対処するためであったことは間違いないと思われる。しかし、結果としてインド仏教に欠けている親の慈愛、親子のつながりという部分が加わり、仏教がより普遍的な宗教として完成されたともいえる。「恩」「孝」「慈悲」…いずれも現代社会に欠如している概念であり、その欠如は深刻な問題である。仏教がシルクロードを超え中国に渡り、漢訳される過程で孝経典が生まれたことは、時代を超えたいかなる問題にも対応できるようになるための必然だったかもしれない。

■父母恩重経が響かない人々

一方で、親による虐待や「毒親」、「ネグレクト」など親からもらった恩など認めないという人もいるだろう。そのような家庭環境に育った人には、この経典はまったく響かないどころか、むしろ嫌悪の念を抱くのではないか。しかも、子は子の方で、親を捨てる「姥捨て山」など、必ずしもかつての人々も親孝行だったわけでもない。だからこそ仏教は繰り返し、人としてあるべき正しい道を説き続けてきた。

そのような悪しき家庭環境の原因は、前の世代における「恩」や「孝」の欠如にある。特に現代社会は、故郷から都会に出て新しい家族が形成される核家族化の世代と、祖父母までの縁が切れつつある。親は子に、自分がその親から、子にとっての祖父母の慈愛に育てられたことを示せないのである。語り継がれ、引き継がれてきた、大切な「恩」「孝」もそこで終わることになる。その後の世代からは「つながり」よりも「個」を重視する個人社会が到来する。

道徳や倫理を超えた「真理」を説く仏教が、父母の恩徳を語ることには大きな意味がある。つまり父母の慈愛の存在は真理であるとすることだ。相対的な価値観の問題ではなく、絶対的な真理である。仏法は親が子を虐待し、子が親を捨てるなどは人の道から外れていると断言する。

■子を宿し育てる意味

人が子を宿す意味とは何か。ただの種族維持本能だろうか。苦労して育ててもやがて巣立っていく子を宿す意味とは。やはりそこには理屈抜きの慈愛があるのではないか。慈愛が次の慈愛を生み繋いでいく。父母の慈愛を「恩」として感謝し「孝」として報いる。その縁が切れつつある個人主義の社会は、無縁社会、孤独死の結末を迎えることになるのではないか。

多感な時期には「生んでくれと頼んだ覚えはない」と親不孝なセリフを投げることもあるだろう。それが成長し自らの子と共に墓の前で、「生んでくれてありがとう」と手を合わせることができるようになれれば、それほど幸せなことはない。「父母恩重経」は今こそ読まれるべき経典といえる。お盆、お彼岸、命日、父の日や母の日…などに一読を薦めたい。

■参考資料

■「父母恩重経」原文
■「父母恩重経」対訳


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