「まだ、死んでねえよ!」三遊亭円楽『笑点』復活!落語家人生を左右した事件とは?

日刊大衆

三遊亭円楽
三遊亭円楽

 今年1月に脳梗塞を患った六代目三遊亭円楽(72=以下、円楽)が8月、国立演芸場で高座に復帰する。これを祝し、その粋な人柄や、五代目師匠との感動の絆などを紹介しよう。

「まだ、死んでねえよ!」

 7月22日、久々の公の場で、健在をアピールした円楽。その入門から振り返ると、青山学院大学時代は落語研究会に属し、五代目三遊亭円楽(以下、五代目円楽)の付き人から弟子入り。師匠の師匠である“昭和の名人”三遊亭円生に「楽太郎」と命名された。

「高校卒業後は就職予定だったのに“一つぐらい大学受けようか”という気持ちで大学要項を見て、あいうえお順で最初の学校を受けたとか」(演芸ライター)

 その聡明さに驚くが、落語家志望でもなかった。

「学費のために始めたバイトが、五代目円楽の運転手だったそうです。“弟子にすりゃ、タダで使えると思ったんじゃない?”とは本人の弁(笑)」(前同)

 出世は早かった。江戸川大学教授で演芸評論家の西条昇氏は振り返る。

「1976年、26歳で二ツ目に昇進し、翌年に『笑点』(日本テレビ系)のレギュラー入り。五代目の弟弟子・三遊亭円窓さんが番組を降りる経緯もあり、まだ20代だった円楽さんが推薦されたんです」

 師匠が大喜利メンバーだったこともあり、円楽は視聴者にすぐになじんだ。

「当時の『笑点』は桂歌丸さんと三遊亭小円遊さんの“バケモノ!”“ハゲ!”という罵り合いが人気。そこに理知的な青年の円楽さんは入って、腹黒キャラを確立させました」(前同)

 かつて『笑点』の座布団配りを担当していた毒蝮三太夫氏は、こう語る。

「俺は立川談志と友達で、その談志は先代の円楽さんと仲がよかったので、いつも3人で遊んでたんです。楽太郎時代の円楽さんは談志のところにもよく来ていて。だから、師匠はもちろん、談志からも影響を受けていたんじゃないかな」

■円楽の落語家人生を左右した事件

 円楽のシニカルな毒舌は、今も昔も『笑点』の肝だ。

「実際、円楽さん不在期間は視聴率が低下。スタッフは復帰を大歓迎です。7月17日の放送では、本人が“昇太、首を洗って待ってろよ!”とアピールする映像が流れました」(放送作家)

 しかし、『笑点』出演は、円楽という落語家にとって一つの側面に過ぎない。

「知名度の高さは落語界随一でも、けっして落語家として表通りを歩んできたわけではないんです」(前同)

『笑点』に加入した翌年、落語家人生を左右する事件が勃発する。

「落語協会分裂騒動です。円楽さんは新団体・落語三遊協会に移籍しました」(同)

 しかも、この新団体に大きな悲劇が襲う。

「旗揚げわずか1年で、大看板の円生さんが急死されたんです」(同)

 これで三遊協会は解散の憂き目に遭う。

「解散後は落語協会に復帰する落語家も多い中、五代目の円楽さんは、大日本落語すみれ会(現・五代目円楽一門会/以下、円楽一門会)を設立し、独立独歩の活動を継続。当然のように円楽さんも、そこに追随しました」(同)

 業界のパワーバランスもあり、東京の4つの定席寄席は、円楽一門会に門戸を閉ざした。1981年に真打に昇進した円楽だが、長い間、歴史のある定席には出られなかったのだ。

「五代目円楽さんが私財を投げ売って『若竹』という自前の寄席を建てたこともあったが、長く続かなかった。今は、『お江戸両国亭』という会場をホームにしていますが、円楽さんは寄席以外のホールや演芸場で場数を踏んでいったんです」(前出のライター)

 結果的に、それが円楽の特性を育むことになった。

「落語家としての円楽さんは、いわば雑草タイプ。どんな環境にも対応できる柔軟性、多面性が魅力」(前同)

 その素養は、思わぬところでも発揮された。16年の不倫釈明会見である。

「素直に認めて謝罪し、会見の最後に謎掛けを披露。“今回の騒動とかけまして、天保銭(江戸時代の小銭)と解く。今は通用しません”。フライデーの記者に手を振ったりと、取材陣も大ウケでした」(前同)

 現在発売中の『週刊大衆』8月15日号では、円楽の師弟の絆についても取り上げている。

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