広島原爆投下から77年。あの日何が起こったのか、目を背けてはいけない事実【前編】 (1/2ページ)

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広島原爆投下から77年。あの日何が起こったのか、目を背けてはいけない事実【前編】

Japaaan読者の皆さんこんにちは。ライターの小山桜子です。今年もまた広島長崎の原爆の日が巡ってきました。

『はだしのゲン』の作者・中沢啓治さんの「原爆を悲しみとして薄れさせてはいけない」という言葉通り、被爆者の怒りは永遠に絶えませんし、絶やしてはいけません。

今回は広島の原爆に焦点を当て、あの日何が起こったのか、どんな被害を受けたのかを日本人として改めて胸に刻みたいと思います。

広島への原爆投下

1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、日本の広島市に、原子爆弾「リトルボーイ」が、マンハッタン計画の責任者であるレスリー・グローブス(一般的には大統領だったハリー・S・トルーマンが投下を許可したとされています)の「広島・小倉・長崎のいずれかの都市に8月3日以降の目視爆撃可能な天候の日に「特殊爆弾」を投下するべし」という投下指令書を受けたB-29(エノラ・ゲイ)によって投下されました。

なぜ広島だったのか

「広島・小倉・長崎のいずれか」の都市は国内では空襲被害が比較的少なく、世界で一度も投下された事のなかった原子爆弾が庶民の暮らす市街地にどのような被害をもたらすのかを比較的正確に観測できる都市でした(被害が少ないという点で京都、新潟も候補に含まれていましたが最終的に外されました)。

実際に投下後は「爆発効果の観測及び記録を行うこと」という命令が出ており、アメリカとしては「完成した二つの原子爆弾の威力を試したい」という思惑があった事が窺えます。

ちなみに「リトルボーイ」というのは「小っちゃな坊や」というニュアンスの言葉。その軽いジョークめいた命名からも、広島の人々の命がいかに軽く見られていたかを推察する事ができ、日本人として怒りを抑える事の出来ない命名です。

爆心地付近の被害

市内ほぼ中央に位置するT字形の相生橋が目標点とされ、投下された原爆は上空600メートルで炸裂しました。

爆発に伴って熱線と放射線、周囲の大気が瞬間的に膨張して強烈な爆風と衝撃波を巻き起こし、その爆風の風速は音速を超えたといいます。

爆発の光線と衝撃波から広島などでは原子爆弾のことを「ピカドン」と呼びます。

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