「お前は何を言っているんだ」山内須藤経俊、敵前逃亡で失った所領の返還を求める言い分に一同唖然【鎌倉殿の13人】 (2/4ページ)
報告によると平惟基(たいらの これもと。雅楽助)の子孫が伊賀国で、平度光(のりみつ。中宮長)の子たちが伊勢国でそれぞれ蜂起しました。恐らく共謀連携してのことでしょう。
経俊が事情聴取と説得を兼ねて出向いたところ、返り討ちに遇って敵前逃亡。賊徒は追い立てる勢いで両国を奪い(虜領し)、鈴鹿関や八峯山などの街道を封鎖。東海道をふさがれた人々は、上洛ができなくなってしまいました。
「やれやれ、仕方ないな」
そこで鎌倉幕府は平賀朝雅に命じて賊徒を討伐させ(4月10日から12日の3日間で鎮圧したので「三日平氏の乱」と呼ばれます)、その武功によって伊勢と伊賀の守護職は経俊から朝雅へと与えられたのでした。
「敵前逃亡は作戦だったのです」経俊の苦しすぎる言い訳こうしてせっかくの守護職を失ってしまった経俊ですが、やがてチャンスが訪れます。元久2年(1205年)閏7月26日に朝雅が謀反の疑い(牧氏の変)で粛清されたのです。
晴。首藤刑部丞經俊捧款状。是去春比伊勢平氏蜂起之時。依無勢。爲聚軍士。暫遁其國之處。差遣朝雅。被誅平氏之間。以經俊所帶伊賀伊勢守護職。被宛朝雅之賞。而於時進退。兵之故實也。強難被處不可歟。就中對治朝雅之謀叛事。諸人雖有勳功之号。正加誅罸。獨在愚息持壽丸之兵略也。件兩國守護職。適日來朝雅之所帶也。且經俊本職也。任理運。依忠節。可返給之趣載之云々。但無御許容歟。随而此所。先之被補帶刀長惟信者也。
※『吾妻鏡』元久2年(1205年)9月20日条
千載一遇のチャンスを逃すまいと、経俊は嘆願書を持参して訴えました。