田んぼの中をひたすら進む?江戸時代「新吉原」にはどうやって行っていたの? (2/2ページ)
衣紋坂を下っていく
日本堤は土手道で周囲より高くなっていますが吉原自体は日本堤ほど高い位置にはありませんでした。そのため、吉原の中に向かうには坂をくだります。この坂が衣紋坂(えもんざか)です。
衣紋坂から大門までの道を五十間道(ごじっけんみち)と呼びました。 距離がおよそ五十間(約90m)だったことからその名前で呼ばれるようになったといわれています。
五十間道は三曲がりに曲がり、両側には茶屋や商家が軒を連ねていたそうです。また衣紋坂の左手入り口に、有名な見返り柳が立っていました。この柳は今も見る事ができます。
帰る客が名残を惜しみ、このあたりで吉原のほうを見返ることからその名前が付いたそうです。また、坂の右手のおりたところに、高札場があったそうです。
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