菅原道真と平将門と崇徳院が日本三大怨霊と言われている理由

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菅原道真と平将門と崇徳院が日本三大怨霊と言われている理由

怨霊とは、この世に怨みを持ったまま亡くなった人の霊である。それが生きている人に災いを与えるとして、古くから恐れられてきた。生きていても怨みが強いと霊魂が肉体を離れ、人に災いをもたらす場合もある。その場合は生霊と言われる。いずれにしても「怨みが強い」ということが言える。
日本三大怨霊とは菅原道真、平将門、崇徳院である。崇徳院ではなく、早良親王を挙げる人もいる。早良親王は「三大怨霊」よりももっと強い怨念を持った人として、三大怨霊のさらに上の大怨霊ともされる。

■日本三大怨霊の菅原道真

菅原道真は「天神様」としても知られ、各地に「〇〇天満宮」「〇〇天神」などの名がつく神社が多くある。学問の神様として有名で、受験生ならば一度は訪れるだろう。

菅原道真は平安時代の学者であり役人であったが、藤原時平らの陰謀による冤罪によって大宰府に流罪となり、そのまま京都に戻ることなく、大宰府で亡くなった。その後、京都では清涼殿に落雷、火災となり多くの死者が出たり、藤原氏や流罪を命じた天皇家で変死が重なったりしたため、菅原道真の怨霊によるものだとして、その霊を祀るために天暦元年(947)に北野天満宮が建立された。

菅原道真は天満大自在天神として神格化され、それが「天神」「天満」などの名前の由来になっている。


■日本三大怨霊の平将門

平将門は天皇の血を引く武士であったが、天慶2年(939)に起きた「平将門の乱」により自らを「新皇」と名乗り、朝敵とされた。そのため、朝廷によって首をはねられ、その首は京都の七条河原でさらされた。将門が討たれたのは常陸国であったため、体はそちらに埋葬されている。首だけが都でさらされたのである。さらし首になって三日後、自分の体のある関東に向かって首が飛んでいったというのが将門の首伝説である。その首が落ちた場所が、東京大手町にある将門塚である。

平将門の怨念は現代まで続き、何度も取り壊しや移転案が出て、工事も行われたことがあるが、そのたびに不審死や事故がおこるため、現在も同じ場所にある。

祀られたのは、将門塚の近くにある神田明神がその場所である。しかし平将門が祀られたのは延喜2年(1309)で、「平将門の乱」から370年も後のことである。そのころ流行った疫病が平将門の祟りと言われていたからのようである。

■日本三大怨霊の崇徳院

崇徳院は「保元の乱」で讃岐国に配流になった崇徳天皇のことである。讃岐では仏教に傾倒し、五部大乗経の写本をしていたという。その写本を京都の寺に納めてほしいと願い出たが、突き返された。怒りのあまり舌を噛み切り、写本に「大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」とその血で書いたといわれている。永治元年(1142)崩御。崩御後も朝廷はその死を無視した。

安元3年(1177)、火災や、鹿ケ谷の陰謀などが起こり、世の中が乱れ始め、「崇徳院の祟りではないか」という話になる。寿永3年(1184)、後白河院は崇徳院の怨霊を鎮めようと「保元の乱」の戦場だった場所に「崇徳院廟」(粟田宮)を建立する。その後明治天皇が崇徳院の御霊を京都へ帰し、白峯神宮を創建した。

■怨霊を祀る理由

怨霊は神として祀られる。怨霊を手厚く祀ることで、恩恵を受ける。邪険に扱うと災いが起こる。「怨霊」が「御霊」にもなるのである。

天災や疫病が起きるのは怨霊のためと考えられていたため、これを祀り鎮めることによって、守っていただこうというのが御霊信仰である。特に、奈良時代から平安時代にかけて、いろいろな政変が起き、非業の死を遂げる位の高い人が出て、天変地異が起こったり、疫病が流行ったりもしたため、それらをその位の高い人の怨念のせい、と考え「御霊」として祀るようになったのである。

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