日本人の宗教観の中心にあるのは神仏以上に死者の存在が大きい

心に残る家族葬

日本人の宗教観の中心にあるのは神仏以上に死者の存在が大きい

8月はお盆、9月は秋分の日と墓参の季節が続く。自宅、あるいは実家にある仏壇の中心にはその家の宗派の本尊が鎮座している。しかし私たちが仏壇に手を合わせる理由は家族に会うためだと思われる。ほとんどの人にとって仏壇とは、先に旅立った家族が住む死後の家のようなものだといえる。日本人の宗教観の中心には、超越的な神仏と並ぶ以上に死者の存在が大きい。

■仏壇や神棚にいる死者

仏壇には通常、阿弥陀如来や釈迦如来といった本尊が祀られている。しかし私たちが手を合わせるとき、本尊を意識して拝むことはほとんどない。大抵は亡くなった家族と対面する。仏壇の中には位牌、遺影、過去帳と、家族関連のものが多い。中心に鎮座しながらも本尊の影は薄いといえる。毎朝「仏さま」にご飯を供えるときの「仏さま」には家族も入っているはずである。

一方、神棚には神様が祀られているが、神様にも記紀に記されているような純粋な神々と、明治神宮の明治天皇、太宰府天満宮の菅原道真、靖国神社の英霊など、人間を神として祀られている場合がある。私たちのほとんどはそれらの「神」を、天照大神や須佐之男命らと並べても違和感を感じることなく尊崇している。本来、人知の及ばない超越的な神仏の世界に死者が溶け込んでいるのである。

■神様 空海

弘法大師空海(774〜835 )は実在した紛れもない人間だが、あちこちの真言系寺院で「お大師さま」と呼ばれて親しまれており、全国に流布していは伝説はほとんど神か仏かというほどである。

空海は治水事業など様々な仕事をした。空海が錫杖を突くと水が出たなどの伝説は、彼が行った治水事業が元になっていると思われる。こうした奇跡譚による大師伝説は全国にあり、様々な奇跡を起こしたとして崇拝されている。そもそも空海本人が未だ高野山奥の院で生きているというのだからもはや人間とはいえない。

真言宗では「南無大師遍照金剛」と唱える。大師は弘法大師、遍照金剛とは本尊・大日如来を意味する。空海の勧請名である。密教には守護仏を決める密教の儀式、勧請がある。曼荼羅に花を投げ、落ちた仏が守護仏となるのだが、空海は2度投げて2度共大日如来の上に落ちたという。つまり「南無大師遍照金剛」とは空海に帰依するという意味である。遍照金剛が大日如来を意味するなら「南無遍照金剛」でも良さそうなものだが、大日如来そのものより空海への尊崇が厚いことが伺える。

真言密教は様々な神仏がおりそれぞれ役割が当てられている。本尊の大日如来は宇宙の真理そのもので現世利益を求める凡夫には敷居が高い。というより、学の無い者にはよくわからない存在である。民衆には宗祖とはいえ人間に過ぎない空海が、それらに並ぶ信仰の対象として敬われているのである。

■神様 親鸞

多神教的な密教とは正反対なのが浄土系である。信じるのは阿弥陀仏のみ。「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えるだけで極楽浄土へ往生できると説く。しかし、浄土真宗の総本山と言える東西本願寺に行くと奇妙なことに気づく。東西ともに境内の中心には本尊・阿弥陀仏を祀る「阿弥陀堂」がそびえ立っているはずだが、境内最大の建物として、中心を陣取っているのは宗祖・親鸞(1173〜1262)を祀る「御影堂」である。「阿弥陀堂」はあるのはその横だ。建物自体も「御影堂」よりひと回り小さい。「弥陀一仏」のはずが参拝に行くと人間である宗祖の方が扱いは上なのである。知識のない観光客が参拝すればまず、親鸞を本尊だと思うことは予想できる。親鸞自身は自らの「遺体を川に捨てて魚に食わせろ」と言い遺しているのだが、結局本人が神格化した。また日蓮系にも日蓮本仏説を唱える一派がある。

■一神教では

こうした死者の神格化は、キリスト教やイスラム教などの一神教の文化からは理解し難いものだろう。キリスト教やイスラム教における死者はこの世には関知しない。死者は天国や地獄、煉獄にいるか、あるいは「最後の審判」に向けて眠っているか。いずれにしてもこの世にあって死者とエンカウントすることはない。彼らが祈りを捧げるのは唯一の神に限られる。聖母信仰や聖人信仰などもあるが、それは聖人たちを通じて神と触れ合うことが目的の、神にとりなしてもらう存在である。神社のように、彼ら自身を神として信仰するのはとんでもない異端ということになる。

日本のキリスト教、イスラム教の普及率は、近隣の中国や韓国に比べて極端に少ない。中国や韓国にも関帝廟や孔子廟などがあり、死者を神格化して崇める宗教観はある。しかしその中でも日本は際立っているように思われる。日本人が、唯一神のような超越的存在を中々受け入れ難いのは、神仏に溶け込んだ死者の地位を奪うことを恐れているからではないだろうか。

■死者と共に生きる

仏壇の主役としての家族、聖人・英雄らの神格化。私たちは超越的な神仏より、死者に対してより親しい感情を抱き、死者と共に生きているといえる。葬式離れ、墓じまいなどと言われる昨今だが、どのように形を変えても、死者との関係はつないでいきたいものだ。私たちもいずれは手を合わせられる側に立つのである。

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