戦国時代『応仁の乱』で主君の落ち目に乗じて下剋上を果たした波多野全慶の野望 (2/6ページ)
義通から九代目の子孫となる波多野行近(ゆきちか)が三河国宝飯郡御津荘(現:愛知県豊川市)に移住して大沢城を築きます。室町時代初期と考えられ、以来波多野家の居城となりました。
【波多野氏略系図】※諸説あり
藤原秀郷……佐伯経資-佐伯経範-(3代略)-遠義-義通-(8代略)-行近-近吉-(4代略)-政家-(2代略)-時政(全慶)
全慶は行近から更に十代目に当たり、その俗名は波多野時政(ときまさ)。この時の字は主君である一色時家(いっしき ときいえ。刑部少輔)から拝領したものです(※以下紛らわしいので全慶で統一)。
この時家は鎌倉公方の足利持氏(あしかが もちうじ)に仕え、相模国守護となりましたが、永享10年(1438年)に永享の乱が勃発。足利持氏が滅亡したため、三河国にいた一族を頼って落ち延びてきました。
永享11年(1439年)に一色城(現:愛知県豊川市)を築いており、時政(元の名前は不明)がその被官として臣従したのはこの頃かと考えられます。