チンドン屋って知ってる?江戸時代に始まり今も再評価が進む貴重な商業文化 (2/4ページ)

Japaaan

広目家の広告 鈴木春風(1851 – 1913)の写本『世渡風俗図会』より(Wikipediaより)

楽隊が加わったことで、その後のチンドン屋のスタイルにさらに近づいていきます。

明治時代~昭和初期のチンドン屋

明治中期には広目屋の宣伝方法が大阪に伝わり、東西屋も楽隊を取り入れるようになりました。

サンドイッチマンと呼ばれる、大きな広告を体の前後に背負って街を歩く宣伝方法も、この頃に本格的に登場しています。このような状況の中、東西屋と広目屋は全盛期を迎えました。

しかし1907年頃になると活動写真がブームになり、宣伝広告は写真を使った新聞が主流になります。路上広告は一気に下火になってしまいました。

都市部での仕事を失った東西屋と広目屋は地方に行き、鉦と太鼓を鳴らしながら4~5人の編成で町を回る行商を行うようになります。

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