戦地に駆り出された少年たち!白虎隊が自刃し悲劇の最期を迎えるまで【前編】 (2/3ページ)
このうち、朱雀隊は主力として前線に配置され、青龍隊は国境の警護を任されました。玄武隊と白虎隊は青龍隊の予備隊という位置づけで、主に城中の警護の任務に就きます。
白虎隊は総勢約300人。当時の会津藩では、10歳になると日新館に入学することが義務付けられており、そこで学んだ16、17歳の少年たちによって編成されていました。
彼らは剣術、砲術、水泳、中国古典、さらには天文学などのさまざまな学問を学んでいたといいます。
白虎隊の隊士たちは、将来を嘱望された若者たちでもあったのです。
さて鳥羽・伏見の戦いの後、江戸城が無血開城されると、会津藩も新政府側へ恭順の意志を示しました。
ところが会津藩は新政府から敵視されており、拒否されます。慶応4(1868)年1月、新政府は東北各藩に対して会津追討令を出しました。
これに対して東北諸藩とその周辺の藩は従わず、仙台・米沢が中心となって奥羽越列藩同盟を結び対抗します。戦争は終わっていませんでした。
仙台藩の裏切り、そして出陣命令さて、新政府軍はすぐさま同盟諸藩へ猛攻撃をかけ、白河小峰城、長岡城、二本松城、福島城を次々と攻め落とすと、勢いに乗って会津へ侵攻します。
すると、ここにきて同盟の中心であったはずの仙台藩が援軍を拒否し、周りの藩からの援助が得られなくなってしまいました。