この世とあの世をつなぐ「食とお供え」の歴史や習わしを紹介

心に残る家族葬

この世とあの世をつなぐ「食とお供え」の歴史や習わしを紹介

神仏に祈りを捧げるとき、死者に思いを馳せるとき、お供えものは付き物である。供物といえば食物を指す場合が多い。私たちが生きていることに感謝するとは、つまりは「食」に感謝することである。「食」はあの世とこの世をつなぐものでもある。

■お供えと共食の歴史

中秋の名月に月見団子をお供えする風習は今も続いている。秋は収穫期。実りの秋の訪れを告げる月に豊作を祈って捧げられるものである。

仏壇や神棚、墓に付き物のお供え。特に仏壇のある家なら毎朝、炊きあがったご飯をもりつけ、仏壇にお供えする。これは宗派の本尊のためというより、あの世にいる家族への毎日の食事という感覚があるだろうと思われる。

古来より地元の神社には収穫物が奉納され祭りが行われた。天地自然は恐るべき災害をもたらし、一方で大いなる恵みを与えてくれる。今年もまた収穫ができたことの報告と感謝。人間の力が及ばない超越的な存在に対する畏れと感謝、畏敬の念の現れ。それが食物をお供えするという行為である。元々神道には「直会」の伝統がある。地元の神職と氏子が祭りや神事の後に、神饌(御饌=みけ)や供物を共に食するのである。そのような神前にお供えした食物には神の力が宿るとされる。筆者の地元では墓参りに一度お供えしたものを食べると風邪をひかなくなるなどと言われたものだ。

毎年行われる宮中祭祀に「新嘗祭」がある。この日は天照大神の子孫たる天皇が神前で五穀豊穣を祈り新穀を食する。特に天皇即位の際に行われる新嘗祭を「大嘗祭」と呼び、儀式では新天皇が神前にて食事をとる「神人共食」を行うとされる。これにより天皇は神の大きな力を得ることになるという。

戦後、新嘗祭は「勤労感謝の日」との呼び名が付き本来の意味とはかけ離れてしまった。その真意は伝わりにくくなったが、新嘗祭は庶民の間でも行われていた。また、近年では簡素化されたが、通夜の晩は一夜を通して飲み食い語り死者を偲んでいた。これは死者との共食といえる。共に同じものを食べることで、あの世とこの世をつなぐのである。神や死者をつなぐのは、やはり生命の根幹である食物でなければならない。

■食物神 豊受大神

皇祖神・天照大神を戴く伊勢神宮には内宮と外宮によって構成されている。天照大神が鎮座しているのは内宮であり、外宮には豊受大神が祀られている。豊受大神は天照大神に御饌を献上する役目を司る食物神、 食物の神である。

この関係からわかるように豊受大神は最高神である天照大神のいわば食事係である。格下でありながら、内宮・外宮というように伊勢の2枚看板として並んでいることを見ても「食」がいかに重要かが示されている。
なお内宮と外宮の関係は中世になって微妙となり、外宮の宮司家・度会氏が「伊勢神道」を創設した。伊勢神道は豊受大神を天照大神と同格、またはそれ以上の神格であると主張。中世の日本宗教史に大きな影響を与えた。仮にも日本の最高神を相手に張り合えたのは「食」を司る神の強大さ故である。

■キリスト教の聖体

キリスト教のカトリックとオーソドックス(東方正教会)では秘跡(儀式)によって聖別され、聖体(聖餐)となったパンとぶどう酒を信者に与える「聖体拝領」が行われる。新約聖書ではパンとぶどう酒はキリストの血と肉を表している。パンとぶどう酒を聖別することで、パンはキリストの身体、ぶどう酒はキリストの血になるとされる。非常に重要な儀式であり、ここでも神と人の関係に「食」が重要な役割を担っている。

■見えない存在への「いただきます」

食事の前に「いただきます」と言う。近年は動物や植物の命を「いただく」ことの尊さが強調され「食育」が注目されている。これはこれでとても大切な考え方だが、「いただく」のは目の前の命だけではない。生産、調理、流通…そうした手順を経て食卓に並ぶ。そうした様々なつながりに感謝しなくてはならない。ここまでは「見える存在」とのつながりへの感謝の意であり、現代でも受け入れられる考えだと思われる。

一方で見失いつつあるのが、神仏と死者などの「見えない存在」とのつながりへの感謝である。私たちは親、祖父母、先祖らのつながりの末端に位置する。命をつないでくれた血統の先人たちへの感謝を込めなくてはならない。

そして、人間を超える神仏の存在である。超越的存在の否定は人間を傲慢にする。特定の宗教の押し付けになるというなら、宇宙の法則と言っても宇宙的大生命などと表現してもよい。人間が宇宙を作ったわけではない。天地創造、ビッグバン、表現は何でもよいが、始まりから「いま」に至るまでの壮大な物語が一膳の飯、一杯の味噌汁に込められている。食事とは常に「神人共食」の場であり、筆者の造語だが「死生者共食」の場でもある。

■お供えの心

弘法大師空海は高野山の奥の院で今もなお生きているとされている。高野山では毎朝空海へ食事が届けられる。超越的存在となってもなお、食事は必要なのである。

生きることは食べること。同時に私たちは、あの世で生きている死者への食事としての 、また私たちを生かしてくれている存在への感謝としての食事、お供えも忘れてはいけない。


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