従属から寝返りへ…井伊直弼亡き後の井伊家&彦根藩の生き残り戦略としての面従腹背 (1/3ページ)

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従属から寝返りへ…井伊直弼亡き後の井伊家&彦根藩の生き残り戦略としての面従腹背

井伊直弼の死

幕末期、幕府の大老だった井伊直弼(いいなおすけ)「桜田門外の変」で暗殺されたのはご存じの通りです。

井伊直弼(Wikipediaより)

ではその後、彼が藩主を勤めていた彦根藩はどうなったのでしょう? その後の経過をたどってみます。

井伊家は歴代で5人の大老を輩出した名門です。中でも、井伊直弼は将軍徳川家定の頃に江戸幕府の大老と、彦根藩の藩主の双方を兼務しました。

直弼は日本の開国や近代化を進めるべく日米修好通商条約を半ば強引に締結したり、幕府の次期将軍を紀州藩の徳川慶福(家茂)と定めたりなど、その行動は周囲からの批判や反発を受けることが多かったようです。

しかし彼はそのような周囲の意見を聞きませんでした。それどころか反対する者を粛清する「安政の大獄」を起こしたことが決定打となり、水戸浪士や薩摩浪士によって暗殺されてしまったのです。

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