なにげに?歴史を動かした男「新田義貞」鎌倉幕府を倒した隠れた功労者の足跡を追う (3/4ページ)

Japaaan

分倍河原駅前にある新田義貞像

義貞の軍が鎌倉を攻める際、山側と海側からの挟撃を試みましたが、稲村ヶ崎はちょうど満潮であったため海側から攻めることができませんでした。

この時、義貞が黄金に光る太刀を海に奉納すると、海の龍神がそれに応え潮が引いたという伝説が残っています。

超人的な力が働いたのか、それとも義貞が潮の満ち引きを計算していたのか定かではありませんが、これにより義貞の軍は鎌倉御所を挟撃することに成功します。

追い詰められた北条高時は家臣と共に自害し、義貞はわずか15日で鎌倉幕府を滅亡させました。

このように、討幕の功労者となった義貞でしたが、十分な恩賞は得られませんでした。

不遇の最期

同じ頃、京都の六波羅探題を攻め落とした尊氏には「従三位武蔵守鎮守府将軍」の地位を与えられましたが、義貞は「従四位上左兵衛佐上野守・越後守・播磨守」の地位に収まります。

鎌倉幕府が滅亡すると、すぐに後醍醐天皇は建武の新政を始めます。これは今までの武士の政治を否定するようなもので、多くの武士から反感を買いました。

そして尊氏は光明天皇を立てて「北朝」と称し、後醍醐天皇に真っ向から反発したのです。

後醍醐天皇も皇位は自らの「南朝」にあると譲らず、この南朝側の総大将に義貞を据え、尊氏を討伐するべく軍を鎌倉に送り込みました。

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