密教呪術を用いて怨霊となった政敵を祓う。密教僧の加持祈祷が活躍した平安時代
ときの権力者が密教呪術を用いて政敵を調伏させるという考え方は、平安時代半ばから見られる考え方で、そのため密教呪術が貴族層の保護のもとに盛行しました。
その要因の一つとして考えられるのが、様々な政略や謀略が日常化した当時の朝廷では、貴族たち様々な物の怪の存在に脅かされたことです。
かれらは政争の敗者の霊が怨みを持った怨霊となり、得体の知れない物の怪たちをひきいて報復として様々な祟りを起こすと信じていました。そんな物の怪たちに対抗できるのが、密教僧や陰陽師の駆使する呪術であると信じられていたのです。
菅原道真の怨霊は有名ですが、
学問の神様・菅原道真公の怨霊が引き起こした数々の悲劇【前編】このときに浄蔵(じょうぞう)という高名な密教僧らが、道真の怨みをかった藤原時平に依頼されて様々な祈祷をしています。
それ以降、皇族、藤原氏の嫡流といった権力者たちは、病気や出産などの心配ごとがあるたびに、密教僧を集めて怨霊鎮めを行うようになりました。
そのうち、密教呪術の対象は、霊や物の怪たちではなく、生きている人間たちに対しても広げられました。権力者の中には、密教呪術をもちいて政敵を苦しめ、自分が優位にたとうと考えるものがあらわれたのです。
その一例として、隠子(おんし)のエピソードがあります。
藤原基経の娘で時平の妹だった穏子は醍醐天皇の女御(にょご・后)となりましたが、903(延喜3年)、臨月に際しかなりの難産に苦しめられていました。
このときのことについて『政治要略』には、藤原忠平がこの出産を妨害するためにひとりの老女に穏子を呪わせたとしています。
老女は、時平邸の床下に隠れて折れて弓を用いて、実家に帰っていた后を呪いますが、時平の手配で安産の修法を行っていた天台宗の僧相応(そうおう)等の働きによって、老女の試みは失敗に終わりました。
皇族や貴族は、修法を頼むために比叡山などの大寺院に競うようにして荘園と呼ばれる領地を寄進しました。
その結果、大寺院が広大な土地を支配し、そこから集めた僧兵で武装して、次第に国政にも口を挟むようになっていったのです。
参考
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

