葬儀で唱える経典(天台宗 真言宗 臨済宗 曹洞宗 浄土宗 浄土真宗 日蓮宗)

心に残る家族葬

葬儀で唱える経典(天台宗 真言宗 臨済宗 曹洞宗 浄土宗 浄土真宗 日蓮宗)

葬儀に読経はつきものであるが、意味などまったくがわからずひたすら終わりを待っているというのが正直なところではないだろうか。葬儀の時、僧侶は何を唱えているのか。主要7宗派で読誦される経典の一部を抜粋する。

■密教系 天台宗 真言宗

天台宗は法華、密教、禅、浄土のすべてが含まれている総合仏教である。元々は「法華経」を至上の経典とした宗派で最澄(767〜822)によって日本にもたらされた。後に密教を深く学んだ弟子たちや、比叡山の神祇信仰などとの習合により現在の形になった。総合仏教だけあって扱う経典も非常に多いが、一般の信徒の葬儀では仏の生命の永遠不滅を説く法華経の「如来寿量品」、または極楽浄土の情景を描いた「阿弥陀経」。そして煩悩を払い極楽浄土へ導く「光明真言」が選ばれる。仏の存在、極楽の存在、極楽へ導く真言と、旅立つ死者に手向けるお経セットという感があり総合仏教にふさわしい。

空海(774〜835 )が開いた真言宗では「理趣経」を読誦することが多い。理趣経は欲望を肯定し生を賛美する大胆な経典である。死者に手向けるのは妙な気もするが、肉体のままで往生する「即身成仏」を説く真言密教ならではの選択である。さらに天台宗と同じ光明真言、阿弥陀仏の功徳を得られるという「阿弥陀如来根本陀羅尼」などの真言を唱える。真言を唱えることで死者はただの遺体ではなく、その身のままで仏になる即身成仏の境地に達するのである。

■禅系 臨済宗 曹洞宗

栄西(1141〜1215)が日本に持ち込んだ臨済宗、「無」の境地を目指す禅では、本来生も死も無い。禅における葬儀の意味は死後、仏弟子になること。参列者にとっては禅を学ぶ場でもある。葬儀では法華経から「観音経」、陀羅尼のひとつで「大悲呪」などが用いられる。いずれも観音菩薩の功徳が説かれている。

同じ禅系では曹洞宗でも観音経や大悲呪が読誦されるが、特徴的なのが宗祖・道元(1200〜53)の主著「正法眼蔵」の思想を平易にまとめた「修証義」である。浄土真宗の正信偈同様、宗祖の教えのエッセンスとして檀信徒が最重要視されている。なお、現代に伝わる仏式葬儀は曹洞宗が始めたものである。

■浄土系 浄土宗 浄土真宗

法然(1133〜1212)が開いた浄土宗は念仏を唱えることで極楽浄土に往生できる専修念仏の道を説いている。その教えは「浄土三部経」に説かれており、その中でも極楽浄土の情景を描いた「阿弥陀経」は旅立つ死者への案内となる。他には「発願文」が挙げられる。臨終を迎えるにあたっての心がけが説かれている。死は恐ろしい。しかし決して混乱・錯乱することなく極楽往生するように導くためのものである。もちろん僧侶参列者が一丸となって念仏を唱える「念仏一会」を欠かすことはできない。

浄土系でも法然の弟子の親鸞(1173〜1262)が開いた浄土真宗では毎朝の勤行や葬儀、法要の場で「正信念仏偈」(正信偈)を唱える。親鸞が主著「教行信証」から抜粋したもので、阿弥陀仏と念仏の功徳、7人の高僧の思想が説かれている。蓮如が毎朝の晨朝勤行に用いるようになった。コンパクトに親鸞の思想を学ぶことができる。蓮如の「白骨の御文」もよく唱えられる。「朝の紅顔、夕の白骨」の一文はよく知られている。文字通り人間の運命などどうなるかわからない。朝元気な顔をして笑っていても夕方には白骨になっているかもしれない。だから念仏を称えて「後生の一大事」に備えなさいという意味である。これはどちらかといえば参列者に向けてのメッセージに思える。

■日蓮宗

日蓮宗は法華経を至上の経典としているので当然法華経、そして「南無妙法蓮華経」の題目となる。日蓮が学んだ天台宗も本来は法華経至上主義であったのが総合仏教になったのに対し、日蓮(1222〜82)は法華原理主義といえる道を貫いた。葬儀では膨大な法華経の中から仏の永遠を説く「如来寿量品」、永遠の仏の働きを説く「如来神力品」、序章であり法華経前半の中心となる「方便品」などが選ばれることが多い。

■死者、生者の双方に向けられる読経

各宗派が葬儀、法要で用いる経典の極一部を挙げた。各宗派はさらに多くの派に分かれており(高野山真言宗、真言宗智山派、真言宗豊山派など)扱う経典も微妙に異なっている。

しかしそれぞれ特徴はあっても目的は同じである。少なくとも日本における大乗仏教では各宗派で解釈は異なるものの、死者の魂は死んでも滅ぶことはない。死者を浄土へ導くための案内として、死者が仏弟子になるための儀式として、経典は唱えられる。そして「白骨の御文」のように、死者と同時に参列者=生者に対しても、生死の真理を説いて聞かせているのである。

■葬儀を仏教を学ぶ場に変える

仏法の教えに触れさせ、縁をつないでくれる人物を「善知識」という。その意味で葬儀の主役である死者は、参列者を仏法に縁を結んだ善知識といえる。葬儀とは死者を見送る場であると同時に、参列者に仏法との縁を結んでくれる場でもあるのだ。だがそれも知識もなく意識も低ければ、ただお経が終わるのを待つだけの場になってしまう。一般の人が長く深くお経を聞く機会は葬儀・法要くらいである。僧侶は読経の前にお経の説明くらいはするべきであるし、お経の簡単な説明を書いたしおりなどを用意してもよいのではないか。ただ悲しむだけ、義理を果たすだけではもったいない。経典の意味を伝えることは葬儀の意義を示すことでもある。

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