戦国時代屈指の忍者集団「真田忍軍」!その活躍ぶりと武田信玄との関係とは?【後編】 (2/4ページ)

Japaaan

またこの時、海野一族の旧領である小県郡も回復しました。

さて当時、何よりも「情報収集」を重視していた信玄は、忍者集団を組織して透破(すっぱ)と呼ばれる忍者の養成に力を入れていました。

そして、育成した忍者たちを全国各地に送り込み諜報の任務にあたらせ、そこから上がってくる各国のさまざまな情報を総合することで敵の弱点を見極め、戦を有利に進めていったのです。

そんな信玄が、幸隆や真田忍軍に注目したのは当然のことと言えます。

甲府駅前の武田信玄像

このような背景もあり、真田幸隆は信濃先方衆という外様の立場でありながら、譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えるようになりました。

そして彼は、信玄の懐刀として「武田家の陰の軍師」「信玄の名参謀」と呼ばれるようになりました。

信玄の死

信玄が育成していた透破(忍者)の数は千人を超えていたと言われています。

そんな透破の頭領として活躍していたのが富田郷左衛門出浦盛清で、盛清はのちに真田忍軍と大きな関わりを持つようになります。

彼の忍者としての才能は群を抜いており、こんな逸話も残っています。ある時、部下の忍者に敵城での情報収集を命じた盛清は、部下よりも先に自分自身が潜入して自ら情報を持ち帰り、部下の情報の正確性を確認したというのです。

やがて、1573年に信玄が死去すると、それを追うようにして翌1574年に幸隆も死去。

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