いつ誰が考えた?小野小町はいかにして「世界三大美人」の一人となったか。その経緯を追う【前編】

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いつ誰が考えた?小野小町はいかにして「世界三大美人」の一人となったか。その経緯を追う【前編】

小野小町はなぜ「世界三大美人」の一人なのか

日本史で「美人」の代名詞と言えば小野小町で、彼女は「世界三大美女」の一人と言われています。しかしこの世界三大美女というカテゴリーは、いつ誰が考えたものなのでしょうか。

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京都山科「随心院」小野小町の歌碑

世界三大美女と言えば、クレオパトラ・楊貴妃(ようきひ)・小野小町です。このうち楊貴妃は、平安時代にはすでに漢詩を手がかりに、とてつもない美女だったということが知られていたので何となく理解できます。

また、【後編】で後述しますが、クレオパトラは大正時代の映画がきっかけで有名になりました。

そして小野小町が加わるのですが、実は歴史記録を紐解いてみても、小野小町が美人だったとはっきり書いてある史料は存在しません。文献でも絵画でもそうしたものはないのです。

そもそも、平安時代の貴族の女性は、基本的に顔をむやみに他人に見せないものでしたし、顔を前面に押し出した描写ははしたないものと思われていたので、記録に残りにくいのも当然でした。

改めて、それではなぜ小野小町は世界三大美女のひとりに加えられたのでしょうか。また、この三大美女の中にはなぜヨーロッパ圏の女性は入っていないのでしょうか。実はこの二つの疑問の答えは、深いところで結びついています。

平安時代の美人の基準は?

まず、男性女性に限らず「風貌の美しさ」の基準は時代によって違う、という点が大きなポイントです。

狩野探幽『三十六歌仙額』・Wikipediaより

小野小町は男性を魅了する魅力があったとされていますが、一方で平安時代は強い個性がない顔の方が美しい、と考えられていました。

当時は、顔の美醜は仏教的な因果応報思想と密接な関係にありました。例えば極端な例としては病気などで顔が変形している場合などは、それは前世の報いであると考えられていたのです。

当時の「美人」の見方もこうした考え方と無関係ではありませんでした。強い個性がある顔よりも、没個性的で取り立てて特徴のない顔の方が美しいとされていたのです。

この点、現代とは正反対ですね。現代の女性のいわゆる美しい顔立ちというのは、メイクによって顔のパーツを際立たせることで成立します。

が、平安時代はその反対でした。当時の絵巻物などを見ても、女性たちの顔が一様に地味で見分けがつかないのも、こうした点に由来します。

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「見られる」ことが前提の美しさ

現代のような、「目を引く」タイプの美人顔が持てはやされるようになったのは、近代以降に西欧文化の影響を受けてからです。

また大正時代以降、メディアの発達によって女性の顔写真などが広まるようになり、「見られる」ことを前提とした美しさが重視されるようになったのも大きいでしょう。

平安時代であれば、女性の顔は家族にしか見せないのが当たり前でした。近代以降、女性の顔を見るまなざしと、見られることを前提とした顔立ちの双方が日本文化の中に登場したということです。

楊貴妃はともかく、クレオパトラという女性が美人の代名詞として見なされるようになったのも、この頃でした。

クレオパトラ7世頭部(紀元前40年頃、ベルリン美術館蔵・Wikipediaより)

つまり、小野小町が「美しい」女性だと言われていた平安時代と、近代以降に彼女が「美しい」と言われるようになった近代以降とでは、見る側の感性も全く違っていたということです。

平安時代と今の美人の基準は違うとひと言で言ってしまえば簡単なのですが、その基準にも歴史的な経緯があるんですね。

【後編】では、やや哲学的な話も絡めながらさらに解説していきます。

参考資料
東大発オンラインメディアumeeT

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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