正室「寧々」と側室「茶々」の仲は悪かった?豊臣秀吉の正室と側室の関係を考察 (2/4ページ)

Japaaan

また、徳川家康の息子の秀忠は、人質として秀吉に出されていた頃、寧々が世話をしていました。このため秀忠は、徳川家に戻ってからもたびたび寧々の元を訪れています。

彼女は、秀吉が関白になる頃には北政所として朝廷との交渉も行っています。

茶々の数奇な運命

次に茶々(淀君)です。彼女の母親はお市の方(浅井長政と織田信長の妹)で、父親と祖父は姉川の戦いで自害しており、兄も切腹に追い込まれるという悲惨な境遇でした。

茶々『伝淀殿画像』(奈良県立美術館所蔵・Wikipediaより)

信長の死後、母親であるお市の方は柴田勝家と再婚しますが、勝家は秀吉と敵対したため、最終的にお市の方ともども自害に追い込まれます。

つまり、茶々が側室となった秀吉は、本来なら親のかたきでした。しかし、当時はこうしたことは珍しくありませんでした。

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