正室「寧々」と側室「茶々」の仲は悪かった?豊臣秀吉の正室と側室の関係を考察 (3/4ページ)

Japaaan

やがて、秀吉と茶々の間に鶴松が生まれます。鶴松は、秀吉の唯一の実子でした。

それまで秀吉は子宝に全く恵まれなかったため、茶々の懐妊が判明すると、お腹の子の父親は別人なのではないかという好奇の目線が注がれました。

そこで、落ち着いた環境で子供を産めるように造られたのが淀城でした。これがきっかけで、茶々は淀君と呼ばれるようになります。

しかし、鶴松は3歳で病死し、後に秀頼が誕生しています。こうして見ていくと、正室は寧々なのに後継ぎは側室の茶々が生むという、ややこしい状況だったことが分かります。

2人の関係は?

このようにざっと見ただけでも、寧々と茶々はさぞ険悪な関係だったろうと想像してしまうところです。秀吉の心境を思うと、男ならゾッとするのではないでしょうか。

淀城跡

しかし、その後いわゆる秀次事件などが起きて豊臣家が滅んでいくまでの経緯を見ていくと、実は豊臣家の体制に綻びが見え始めたのは秀吉の死後、特に寧々と茶々の居城が分離して以降の出来事だったことが分かります。

このことから、本当は寧々と茶々は豊臣家の要であり、2人が同じ城内にいて連携することでしっかりした協力体制が取れていたのではないか、と最近では言われています。

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