死者への尊厳や畏敬の念が欠けつつあることと葬儀の簡素化との関係

心に残る家族葬

死者への尊厳や畏敬の念が欠けつつあることと葬儀の簡素化との関係

葬儀はあの世に旅立つ死者を送る儀式である。遺体をただのモノだと考えるなら必要はない行為だろう。モノではないからこそ行われる。しかし最近では、この世の役目を果たして去った人の尊厳を軽んじるような事例が目立っている。

■仲本工事さんをめぐる騒動

ドリフターズの仲本工事さんの葬儀で騒動が起こったと一部メディアが報じた。記事によると、お花入れの時、仲本さんの妻が仲本さんの遺体の写真を撮影していた。その行為に高木ブーさんの娘さんが激昂し、かなり強い口調で注意したという。高木さんの娘さんは“ご遺体は記憶の中にとどめておくものだ”と重ねて注意したが、仲本さんの妻は聞く耳を持たなかった。撮影を止めない妻に、いかりや長介さんの娘さんも止めに入る。すると妻の取り巻きの一人が棺に近づいて遺体をスマホで撮り始めた。彼らは怒られても、“なんで撮っちゃいけないんですか?”と言い返し、悪びれることなく撮り続けていたとされる。妻はさらに取り巻きたちに自分と仲本さんのツーショット写真を撮らせ、“仲本さん、仲本さん!”と呼びかける自分の動画を撮影したりもしていたとも報じている(詳細はこちら)。

ワイドショー的な内容であり、これらがすべて事実であるかは知る由もない。ただ仲本さんの妻は、遺体を撮影したことと取り巻きが注意されたことについては事実だと認めている。

故人の撮影の有無は遺族が決めることであり、その決定に他人が意見を述べる筋合いはない。例えば旅立つ身内を、家族で笑顔で囲むなどといった情景はあってもよいと思われる。しかし、この場合は棺に眠る遺体をよってたかってスマホで撮りまくり、たしなめられても開き直りひと悶着を起こした。遺体の前である。その光景を想像すると背筋が凍る人は多いのではないだろうか。そこには死者の尊厳、死者への畏敬の念が欠けている。

■ユーチューバー逮捕

やや古い話題になるが、ユーチューバーの男が墓地で卒塔婆を振り回すなどした「礼拝所不敬罪」の疑いで逮捕された事件があった。男は他人の墓碑に土足で上り、卒塔婆を振り回しながら奇声を上げるなどし、撮影した動画をアップしていた。例によって再生回数を増やす目的だったようである(詳細はこちら)。

礼拝所不敬罪(刑法188条)とは、墳墓発掘罪(刑法189条)と並び、墓場で敬意を欠いた罰当たりな行為をしてはいけないということである。法律というより倫理、それも子供でもわかる当たり前の常識である。このようなことをするような者には「罰当たり」などという言葉は一切通じないのだろう。そんなものは全く畏れないからだ。

なぜ死者を畏れ、敬わなければならないのか。死者は神様仏様になる。よく刑事ドラマなどで遺体を「ホトケ」と呼ぶが、死者はこの世ならざる世界に行き、この世ならざる存在となる。神仏と同じ超越的な存在なのである。そのような感覚は科学至上主義の現代では失われつつあるのだろうか。

■問われる「想い」

近年は簡易的な「直葬」をする家庭が多くなっている。確かに簡素ではあるが実際にはそこまで事務的というものでもない。遺族が心を込めて見送るなら問題はないだろう。経済的な事情もあるなら故人も納得しているはずである。そこに畏敬の念があるかどうかが大切なのだと思う。いくら立派な葬儀が執り行われても、参列者があくびをしていてはどうしようもない。

遺体はその人を知る人の、これまでの想いそのものである。共に笑い怒り泣いた時間が詰まっている。だからこそ私たちは「お疲れ様でした」「今までありがとう」という言葉で送るのである。私たちは参拝や墓参を通じてこの畏敬の念を育んできたはずだ。無宗教、無神論者だから墓参りには行かないというわけでもないだろう。神仏や霊魂の存在を信じていなくても、常識のある人間なら墓参には行く。この当たり前のしかし大切な感性が急速に失われつつある。葬儀離れの時代、死者への想いが改めて問われている。

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