二朝分裂の皇統が一本化した――仮説の内乱「辛亥の変はあった!?」 (2/3ページ)

日刊大衆

 つまり、『法王帝説』に基づくと、継体の皇子三人(安閑、宣化、欽明)のうち、安閑と宣化の治世を飛ばし、いきなり欽明の治世が始まってしまうのだ。

 また、奈良時代にまとめられた『元興寺縁起』(元興寺は南都七大寺の一つ)でも、そのことは裏づけられる。仏教伝来に関係する話でもある。日本に仏教が伝来した年は『書紀』の「552年」説と『法王帝説』『元興寺縁起』の「538年説」の両説あるものの、現在では後者の「538年」説でほぼ固まっている。

『元興寺縁起』は「欽明第七年戊午年(538)」に仏教が伝来したと記載しているから、欽明天皇の即位年は逆算して531年の辛亥年に当たる。

 538年が「欽明七年」なので、厳密には即位年を532年とするべきだが、これは、越年称元法(即位の翌年を新天皇の治世の「元年」とするという考え方)によるものだから矛盾しない。

 さらに朝鮮の百済の史料『百済本ほ ん記ぎ』に、辛亥年に日本の朝廷内で内紛が生じていたと窺える記述がある。

 つまり、(1)『書紀』における継体没後の「三年間の空白」、(2)安閑、宣化を飛ばして欽明が即位したとする『法王帝説』『元興寺縁起』の記述と『書紀』との矛盾、(3)『百済本記』から窺える朝廷内の混乱――以上の矛盾点や謎を解決する方法として、戦前の歴史学者喜き田た貞さだ吉き ち氏(故人)が次のような解釈を示した。

 まず、継体天皇が辛亥の年に発生した事変(内容は不明)で没し、欽明天皇が即位したが、その即位に反対する勢力があり、「三年間の空白」を経て安閑天皇が即位。その後、「欽明朝」と「安閑・宣化朝」が並立した――。

 戦後、この両朝並立説を発展させ、当時、日本は内乱状態にあったとして「辛亥の変」という解釈を提唱したのが前出の林屋氏だった。

 林屋氏の主張はこうだ。まず背景に、当時のヤマト政権が朝鮮出兵に失敗したことが挙げられる。出兵で過重な負担を強いられた地方の首長や民衆の不満が充満し、筑紫(九州地方の古称)では磐井の反乱(527年)となって現れた。

 朝鮮出兵を巡る責任論は中央に及び、前述したように事変と両朝並立の状態を生み、不安定な政情が地方での反乱を惹起した――。

「二朝分裂の皇統が一本化した――仮説の内乱「辛亥の変はあった!?」」のページです。デイリーニュースオンラインは、天皇歴史戦争カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る