二朝分裂の皇統が一本化した――仮説の内乱「辛亥の変はあった!?」 (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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 古代の壬申の乱に始まり、明治維新後の西南戦争まで、わが国は幾たびも内乱を繰り返してきた。

 しかし、「仮説の内乱」といわれるのは「辛亥の変」だけだろう。

 歴史学者がいくつかの史料を基に「内乱があったはずだ」と解釈しつつも、他の内乱のように各史料に確実に「あった」とは記されていないからだ。

 干支(十干と十二支を組み合わせた六〇年周期の数字)に基づく辛亥(西暦531)に当たる年に朝廷内でなんらかの異変が起き、三年後の534年に「欽明朝」と「安閑・宣化朝」に皇統が分裂。己未(539)の年に両朝の並立が解消され、合一されたという仮説だ。

 必ずしも両朝間で大きな軍事衝突があったわけではないが、不安定な政情を反映し、全国で地方の首長らの反乱が相次ぎ、わが国は全国規模で事実上の内乱状態にあったという。

 以上が、日本史の権威である林屋辰三郎氏(故人)らが主張した説だ。

 その両朝並立からおよそ八〇〇年後の建武三年(1336)に皇統は北朝と南朝に分かれ、両朝が合一される明徳三年(1392)まで、わが国は内乱の時代を迎えるが、林屋氏らの説が正しければ、古代にも皇統が分裂していたことになる。

「辛亥の変」と呼ばれる内乱は本当にあったのだろうか。順序立てて説明していこう。

 そもそも、この内乱説を生んだ背景に『日本書紀』(以下『書紀』)の記述に矛盾があるからだ。『書紀』には継体天皇の没年が例の「辛亥」年と記載されている一方、その次の安閑天皇の元年(『書紀』が治世の始まりとする年)を甲寅年、三年後の534年としている。

 つまり、継体と安閑天皇の治世の間に「空白の三年」が生じているのだ。その疑問に加えて、こんな矛盾もある。『書紀』によると、安閑の死後、その同母弟の宣化天皇の元年が536年、続いて、安閑の異母弟の欽明天皇の元年がそれぞれ540年となっている。

 ところが、平安時代に書かれた聖徳太子の伝記史料『上宮聖徳法王帝説』(以下『法王帝説』)によると、欽明天皇の治世は四一年の長きにわたり、その没年から逆算した即位年は辛亥年(531年)。『書紀』でいう継体天皇の没年に当たる。

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