二朝分裂の皇統が一本化した――仮説の内乱「辛亥の変はあった!?」 (3/3ページ)

日刊大衆

■「日本書紀」の記述通り両朝並立はなかった!?

 それでは喜田、林屋両氏の説を基に若干、肉づけし、一部推測を交え、もう少し詳細に「仮説の内乱」といわれる状況を見ていこう(遠山美都男著「古代皇位継承事件ファイル4 辛亥の変」/『歴史読本』868号参照)。

 継体天皇二一年(527)に起きた磐井の反乱の衝撃がまだ冷めやらぬ同二五年(531)、継体天皇が宮中で起きた事変の犠牲になって崩御。

 その事変の直前、朝廷内の新興勢力である蘇我稲目(蘇我馬子の父)が欽明天皇を担ぎ出し、その即位に成功する。継体天皇の死に関係する事変も稲目によるものだという観測が流れた。

 一方、のちに安閑、宣化天皇となる同母兄弟は継体天皇の重臣だった大伴金村らに擁立され、まず、三年後の534年に勾ながりのかなはしのみや金橋宮(奈良県橿原市)で安閑天皇が即位。欽明天皇の皇居は磯城嶋金刺宮(奈良県桜井市)だから、ここに皇統は両朝並立となって分裂したことになる。

 こうした中央の混乱が朝鮮出兵への地方の不満を助長させ、各地で反乱が相次いで起こる中、535年に安閑天皇が崩御し、同母弟の宣化天皇が檜隈蘆入野宮(奈良県明日香村)で即位。

 その後、539年に宣化天皇が没し、ようやく両朝が合一して地方の反乱も鎮まっていった――。

 確かに「仮説」としては面白い。しかし、喜田、林屋説は主に『法王帝説』『元興寺縁起』に基づいており、その史料的価値を巡っては諸説ある状況。多少の政治の混乱はあっても、『書紀』の記述通り、「安閑、宣化、欽明」の順で即位し、両朝並立はなかったとする見解もあることをつけ加えておきたい。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。
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