織田信長「比叡山延暦寺焼き討ち」「悪魔の所業に重大疑惑」浮上中! (1/3ページ)
その所業、天魔(仏道の修行を妨げる魔王)のごとく――と、後世まで非難される織田信長の比叡山延暦寺焼き討ち。
彼の一代記『信長公記』によると、元亀二年(1571)九月、織田勢は「雲霞のごとく(比叡山を)焼き払い、灰燼の地となすこと哀れなり」、すなわち全山ことごとく焼き払ったとある。
さらには「高僧」の他、「美女・小童、その数を知らず召し捕らえ」とされ、結果、「数千の屍」を晒すことになったという。
つまり、信長は天下に名高い高僧や女・子どもまで殺したのだ。『信長公記』がいうように、俗世にまみれた「悪僧(僧兵ら)」については「是非に及ばず(仕方がない)」としても、確かに天魔」の所業といえる。
しかし、比叡山の考古学調査が進むにつれ、信長が全山ことごとく焼き払ったという通説に疑問が投げかけられることになった。
この事件を再検証してみよう。
比叡山延暦寺では東塔、西塔、横川という三つのエリアで、それぞれに中心伽が藍となる根本中堂や講堂をはじめ、現存する主な建物の修理に伴って考古学調査が行われてきた。
その調査員の一人、兼康保明氏が発表した論文(「織田信長比叡山焼打ちの考古学的再検討」/『滋賀考古学論叢』第一集)によると、根本中堂と講堂を除き、調査で確認された焼土層は信長の時代のものと特定できず、それ以前の平安時代から南北朝時代のものか、あるいは江戸時代のものだとみられることが判明。
つまり、織田勢の放火によって焼き落ちたと確実にいえるのは根本中堂と講堂だけ。『信長公記』が全山ことごとく焼き払ったという記述と明らかに矛盾するのだ。『信長公記』の史料価値は高いとされているだけに、とても嘘偽りを書いていると思えない。
また、山科言継という公卿の日記にも「大講堂、(根本)中堂、谷々の伽藍ことごとくこれを放火す」とあり、やはり考古学調査の結果と矛盾しているのだ。
その真相を探るべく、まず焼き打ちに至る流れを確認しておこう。