寛政の改革を断行し自らを神人一体とするように考えた松平定信 (2/2ページ)

心に残る家族葬

「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」これは、白河藩主である松平定信の政策の厳しさと、賄賂などの疑いがあった田沼意次の政治を併せて詠み表し、寛政の改革の批判をしているものである。

■松平定信と神人一体

磯崎康彦氏の著書『松平定信の生涯と芸術』には、以下のような記述がある。

「定信は、寛政年間後半、神道祭祀に傾倒し、自らを神人一体とするように考え、文人姿と武人姿の二体の木彫りを制作させた。木彫りには、文武両道の意味が込められていた。天明4年(1784)、定信は白河領に入ると、城内に藩祖松平定綱を祭る鎮国殿を建て、この霊社に寛政年間中頃、文人姿の木彫りを安置した。もう一体は、白河半邸下屋敷浴恩園の感応殿に諸神像と共に置かれた。定信は、藩祖と同じように藩土からの尊崇を求めたのである。定信は、木彫り以外にも自らの肖像画を白河の霊社に納めた。撥乱反正の肖像画である。画面に、「撥乱反正 賞善而罰悪」(乱を撥めて正に反し、善を賞して悪を罰す)と天明七年六月「定信自写」と書かれる。これは、白河藩士服部半蔵が、江戸在勤の奥平八郎左衛門に定信画像を依頼し、白河に運ばれた作品であった。白河藩では、年始をはじめ必要な祭儀に応じて藩士にこの画像を参拝させたのである。」

この文章において、神人一体とは神人合一と同義であり、つまり松平定信は自己を神として祭るよう人々に求めたということである。現代では、自分を神として讃えよと言う人が居たら、おそらく変な目で見られることが多いだろう。もちろん、自己を神とする行為は江戸時代当時においても一般的であったとは言い難い。しかし、文政12年(1829)、江戸の白河諸藩邸が大火で焼失し、避難先の伊予松山藩邸で松平定信が死去した際、没後の天保4年(1833)11月に守国霊神、翌5年に守国明神、安政二年(1855)に神宣を受けて守国大明神の神号を受けた。定信は没後に神人一体を成し遂げているのである。

今でも三重県桑名市に鎭國守國神社という神社があり、そこに松平定綱と共に祀られている。

■墓地の様子から感じられる想い

人は誰かに愛される一方で、誰かには憎まれる。遍く全ての人に愛される人などは居ないだろう。松平定信も、厳しい政策を行った者として、規制の対象になった戯作者や町の人々から憎まれただろう。しかし、藩主として土地を治め、老中として江戸の人々を飢饉から助けようとしたのもまた事実である。現代まで緑に囲まれた大きな墓地が綺麗に保たれていることから、たしかに人々に愛されていた人物であったことが分かるだろう。

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