寛政の改革を断行し自らを神人一体とするように考えた松平定信 (1/2ページ)

心に残る家族葬

寛政の改革を断行し自らを神人一体とするように考えた松平定信

江戸時代の大名、老中として有名な松平定信。その定信の墓は東京都江東区の霊巌寺にあり、木々に囲まれ閑静な雰囲気の自然の中に、悠然と佇んでいる。少し前、その松平定信の墓地を訪れる機会があった。

■松平定信とは

その大きな墓石は造られてからの時間の経過を感じさせる様子でありながらも、周りは綺麗に整えられており、そこが大切に手入れされてきたのが分かる佇まいであった。そして、霊巌寺の墓前の看板には松平定信についての軽い説明が書かれている。以下はその引用である。

「史跡 松平定信墓
 松平定信(1758〜1829)は8代将軍徳川吉宗の孫、田安宗武の子として生まれ、陸奥白河藩主となり、白河楽翁を号していた。
 天明7年(1787)6月に老中となり、寛政の改革を断行、寛政5年(1793)に老中を辞めている。定信は老中になると直ちに札差統制(旗本・御家人などの借金救済)・七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行い、幕府体制の建て直しを計った。また、朱子学者でもあり、『花月草紙』『字下の人言』『国本論』『修身録』などの著書もある。
昭和51年3月31日 建設 東京都教育委員会」

■寛政の改革について

寛政の改革は、吉宗の行った享保の改革、水野忠邦が行った天保の改革とならび、三大改革の一つに挙げられる。

松平定信が政治の権力を握り、寛政の改革を行う以前は、老中田沼意次による政治が展開されていた。株仲間の推奨などで幕府の財政を建て直そうとしたが、幕府の利益を優先させる政治に諸大名や庶民の反発が高まる。明和の大火、浅間山の大噴火などの天災も相まって、飢饉状態に陥り、人々は一揆や打ちこわしなどが急増して失脚した。

その後に政治権力を握った松平定信は、天災や飢饉に備えることが出来るよう、囲米を人々に命じ、また棄捐令を出し旗本・御家人の救済を計った。田沼期の人々の政治に対する不満を受け止め、人々の暮らしが改善していくように動いたことが分かる。しかし、朱子学を幕府公認の学問と定め、古学などの他の学問を禁止する、洒落本や黄表紙などが規制されるなど、弾圧的な政策もいくつかあり、その様子は当時の狂歌などにも表れている。

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