戦国時代の始まりは応仁の乱ではない!?「関東の三十年戦争」享徳の乱とは【後編】 (2/4ページ)
仕方なく足利方は古河城を拠点をすることになり、成氏は「鎌倉公方」ではなく「古河公方」と呼ばれるようになりました。
当時の将軍である足利義政も、1457年に足利成氏から鎌倉公方の役職を剥奪。そのかわり、新たな鎌倉公方として、兄である足利政知を擁立しました。
ところが、だんだん話が複雑になっていきます。
古河公方VS堀越公方幕府は、新しい鎌倉公方として足利政知を立てたのはいいものの、戦争では手を組んでいたはずの上杉家や、関東の武士たちからは支持を得られませんでした。
しかも、幕府による足利成氏の討伐もうまくいきません。
結局、新・鎌倉公方であるはずの政知は鎌倉までたどり着けず、伊豆国の堀越にとどまらざるを得ませんでした。こうして、政知は「堀越公方」と呼ばれるようになります。
もともと、関東地方は都から離れているため、もともと幕府の支配力が及びにくいところがありました。だからこその鎌倉公方・関東管領だったのですが、こうしたまとめ役が不在となったため関東地方は無法地帯のようになってしまいます。