武士たるもの、刀の手入れは…『六波羅殿御家訓』が伝える北条重時(義時三男)の教え (2/3ページ)
やがて成長した重時は承久元年(1219年)に小侍所(こさむらいどころ。鎌倉殿の親衛隊)別当を務め、寛喜2年(1230年)に六波羅探題北方として京都へ赴任。六波羅殿と呼ばれた重時は、朝廷に対する抑えとして存在感を示しました。
『六波羅殿御家訓』はこの在任期間中(寛喜2・1230年~宝治元・1247年)に書かれたものと見られ、43条にわたる教訓集は当時の武士たちにとって手本となったことでしょう。
やがて鎌倉へ戻った重時は連署(副執権)として第5代執権・北条時頼(ときより。義時の曾孫)を補佐します。
建長8年(1256年)に出家して極楽寺で隠居。この期間に教訓集『極楽寺殿御消息(ごくらくじどのごしょうそこ)』を執筆、さらに重ねた人生経験を子孫らに伝えたかったのでしょう。
そして弘長元年(1261年)11月23日、64歳で世を去りました。息子の北条長時(ながとき)は第6代執権を務め、長女の葛西殿(かさいどの)は時頼に嫁いで第8代執権となる北条時宗(ときむね)を生むなど、鎌倉幕政に大きく影響を及ぼしています。
「腰刀の錆びたる持つべからず」さて、そんな北条重時が記した教訓がこちら。
一、 腰刀ノサヒタルモツヘカラス、シウヲヤノメス時、サヒカタナヲヌキテマイラセツレハ、思ヒヲトサルヽナリ、大方弓箭取者ノ、大刀カタナヲサハス事ナカレ、何時イカナル事ナ■アランスラント、不断ニ心用心アルヘシ、
※北条重時『六波羅殿御家訓』第31条(原文に番号はふっていませんが、便宜上)
【読み下し】腰刀の錆びたる持つべからず。主・親の召す時、錆び刀を抜きて参らせつれば、思い落とさるるなり。大方弓箭とる者の、太刀刀を錆ばす事なかれ、何時いかなる事な(ど)あらんずらんと、不断に心用心あるべし。
