ホンジャマカ・恵俊彰インタビュー「上島竜兵の死がショックだった…心のどこかでいつでもみんなと会えると思っていた」

日刊大衆

恵俊彰(撮影・弦巻勝)
恵俊彰(撮影・弦巻勝)

 現在は『ひるおび』(TBS系)などの、司会の仕事が多い僕ですが、今でもホンジャマカというお笑いコンビの一員なことは変わりません。

 とは言っても、最後に石塚(英彦)とコントをやってから、7年もたってしまっているんですが……。

 僕らがお笑いを始めた頃、六本木にバナナパワーというショーパブがあって、ダチョウ倶楽部やB21スペシャルなど同世代の芸人たちと週に数回出演していました。

 3回のショーが終わると、深夜1時半。もう電車がないから、みんなで居酒屋に行って、将来の夢を語ったりしながら、よく朝まで飲んだものです。

 ダチョウ倶楽部は、出番直前までケンカしながらネタを作ってましたけど、ステージに出たらそんなことはみじんも感じさせず、とにかく面白い。『ひょうきん予備校』(フジテレビ系)という番組でも一緒になったりして、「この人たちにはかなわないな」と思っていました。

 だから、竜ちゃん(故・上島竜兵さん)が逝ってしまったときは、ものすごくショックでした。

 生放送の中で“ニュース”としてこのことを伝えながら、僕の頭の中では「もう、竜ちゃんには会えないんだ」ということが、ぐるぐると回っていました。

 これまで同世代の芸人たちのことをあまり意識してこなかったけど、なんとなく心のどこかで、いつでもみんなと会える、一緒にまた仕事ができると思っていたんだな、ということに気づいた……気づかされたんですよね。

 それまで僕は、気づかないようにしていたのか? 今の仕事をやることに必死すぎて気づかなかったのか? 時間はまだまだたくさんあると思っていたのか? もうすぐ60歳になるというのに、大事なことに気づかずに毎日を送っていたのかと、ショックでした。あの後、若手の頃ともに切磋琢磨した人たち何人かに会いに行ったりもしましたね。

■コロナ禍であらゆることが変わってしまいました

 気づかされたといえば、コロナ禍も、そのひとつです。コロナ禍前、『ひるおび』は数十人のお客さんを入れてやっていて、前説、後説をやっていたんです。

 僕が50歳になった頃は「東京オリンピックまで、5年あったら英語を覚えられるよね。3年あれば、何か新しいことができるよね」みたいな話をよくしていました。

 ところが、コロナ禍であらゆることが変わってしまいました。特に最初の1年は世の中がピタッと止まってしまい、誰とも会えない。どこにも行けない。そんな状況だったからこそ、何かやらなければという思いがこみ上げてきたんです。

 僕は高校卒業後に3浪したあげく、この世界に入ったので、受験を中途半端に終わらせてしまったということが、落とし物をしたように引っかかっていました。だから、大学院で学ぼうと思ったんです。

 早稲田大学大学院スポーツ科学研究科を選んだのは、番組を通してスポーツに関わる方々と出会い、伝える人間として、もっとスポーツについて学びたいと思ったからです。

 入学してみると、同級生にはサッカー元日本代表の川口能活さんや、ラグビー元日本代表の五郎丸歩さんなど、すごい人たちもいるし、介護施設やジムの経営者の方もいる。彼らと机を並べて勉強するのは、とても新鮮です。

 現在は、毎朝5時くらいに起きて、妻が子どもたちのお弁当を作っている横でニュースや新聞をチェック。TBSに行って2時間くらい打ち合わせをした後、10時25分から13時55分まで本番。夕方から学生として授業を受けるというのがウィークデイのスケジュールです。どれも好きなことだし、大変という感じはないんですけど、さすがに平日はお酒を飲まなくなりましたね(笑)。

 この先、やりたいことですか? うーん、どうなんでしょうね?

 僕らの仕事は、オファーがあって初めて成り立つので、今いただいている仕事をしっかりやるということが、先につながると思って、日々をしっかり生きていたいと、思っています。

恵俊彰(めぐみ・としあき)
1964年12月21日生まれ。鹿児島県出身。1987年に芸能界に入り、88年に11人体制のホンジャマカ初ライブを開催。89年からは石塚英彦と2人でのホンジャマカとして活動をスタートし、数多くのテレビ番組に出演。2009年から『ひるおび』(TBS系)の総合司会を担当。22年度に早稲田大学大学院に入学。

「ホンジャマカ・恵俊彰インタビュー「上島竜兵の死がショックだった…心のどこかでいつでもみんなと会えると思っていた」」のページです。デイリーニュースオンラインは、石塚英彦恵俊彰ホンジャマカ上島竜兵ダチョウ倶楽部カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る