「土偶の正体は植物」説が浮上中、縄文時代「これが7大新常識だ!」

日刊大衆

写真はイメージです
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 新説相次ぐ日本史の中でも、これまでの常識が大きく覆されてきているのが日本最古の時代――縄文時代。

 これまで縄文人は家族を中心とした十数人の集団で移動する狩猟生活を送り、富める者と貧しい者の区別がない平等な社会と考えられてきた。

 ところが、彼らは定住して集落を作り、食用のために植物を栽培し、かつ、貧富の差があったことが確認された。

 また、女性をかたどったとされる土偶のモチーフが植物だったという新説も提唱されている。

 知っているようで知らない縄文時代の新常識を探ってみよう。

●縄文時代の時代区分

 始まりは一万三〇〇〇年前とされてきたが、後期旧石器時代の大平山元遺跡(青森県外ヶ浜町)が発見されて、時代は三〇〇〇年も一気に遡さかのぼった。

 この遺跡は昭和四六年(1971)に町内の中学生が石器を拾ったことが契機になって学術調査が進められ、石器とともに無紋土器の破片がいくつか見つかったのだ。

 土器片に付着していた炭化物から年代を特定し、一万六〇〇〇年前のものと分かった。

 ただし、土器にはこの時代の名称となった縄文(縄目の文様)がなく、これまで通り、一万三〇〇〇年前に始まったという説も根強い。

 一方、終わりは二四〇〇年前頃(紀元前三~四世紀)とするのが一般的。

 いずれにせよ一万年ほど続き、世界史では新石器時代に区分されている。


●縄文時代は「東高西低」だった

 九州地方で稲作が始まり、弥生時代以降、歴史は西日本が先進地域となった関係で「西高東低」が常識となる。

 しかし、縄文時代は逆。その象徴が三内丸山遺跡(青森市)だ。竪穴式住居群跡の他、集会所説や共同住宅説のある大型の竪穴式建物(長さ三二メートルの通称・ロングハウス)などが見つかり、最盛期、集落内に数百人が住んでいたことも判明した。

 この遺跡の発見で縄文時代に人が定住していたことが裏づけられ、さらに世間を驚かせたのは、弥生時代の集落跡、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)の巨大な「物見やぐら」を彷彿とさせる木柱跡が見つかったこと。

 改めて東日本における縄文文化の水準の高さが証明されたわけだ。

 その理由の一つは、西日本が常緑樹林帯で東日本が落葉樹林帯であったこと。

 冬に葉を落とす落葉樹林帯である東日本は、ワラビやゼンマイなどの植物に恵まれ、西日本より食糧を確保しやすかったことが挙げられる。

 縄文時代というと狩猟社会のイメージだが、一部、イノシシを家畜化しようとした試みはあったものの、実際には食糧の大半が植物資源(ちなみに彼らの主食はアク抜きの必要がないクリ)だった。

●縄文人の正体

 縄文人の先祖は日本に住んでいた後期旧石器時代人だが、彼らはどこから来たのか。

 かつては南方から日本に渡って来たといわれてきたが、縄文人骨のミトコンドリアDNAの分析で、シベリアと中国、朝鮮方面の集団との共通性が指摘されている。

 最終氷河期に当たる後期旧石器時代には、シベリアから樺太と北海道までが地続きで、そこから今より狭い津軽海峡(北ルート)、あるいは朝鮮半島を経て同じく今より狭い対馬海峡(西ルート)を渡り、古こ 本州(現在の本州、四国、九州も陸続きだった)にやってきたとみられる。

 こうして縄文人が形成されて一万年が経ち、稲作文化を持つ人々が再び西ルートで渡来し、彼ら弥生人が縄文人を駆逐したといわれてきた。

 しかし、人骨などのDNAの分析で現在の日本人は縄文人の要素を一〇%から二〇%残し、われわれの先祖が縄文人であることが分かってきた。

●縄文時代にコメを栽培していた?

 狩猟や採取のみならず、縄文時代に植物を栽培していたのは、貝塚などでマメやウリなどの栽培植物の種子が発見されていることで明らか。

 稲の葉の細胞も検出され、一部、稲作が行われていることも確認された。

 だが、それは水田用ではなく畑作用。コメの栽培は一般化しなかった。

●土偶の正体

 土偶は粘土で素焼きした小像のこと。なんのために造られたのかは、この時代最大の謎とされるが、玩具説や祭具説の他、護符説や呪術(まじない)説などがあり、定まらない。

 また、その形は女性をデフォルメしたものといわれ、代表的なのが「縄文のビーナス」。

■村落同士が利害関係で戦争することもあった

 しかし、人類学者の竹倉史人氏は、縄文人の主食の一つ、オニグルミの殻の断面と「ハート型土偶」の顔の部分が酷似していることに気づき、このタイプの土偶とオニグルミの生育分布に近接性(近づきやすさを示す概念)があることを突き止めた。

 縄文人が食用の植物を栽培していた事実と重ね合わせ、こうして「土偶=植物を象った精霊像」という新説を提唱するに至った(『土偶を読む』)。

● 翡翠と墓から読み解く貧富の差

 縄文時代は前述した通り、完全に平等な社会ではなかった。

 遺跡の一部から稀に翡翠製の「玉」が発見されるからだ。翡翠の産出は新潟県の姫川流域に限られ、工房跡も確認されている。

 つまり、同じ集落の住人の中には希少品である「玉」を手に入れる層がいたことを意味する。

 また、下太田遺跡(千葉県茂原市)から多数発掘された人骨の多くは集団で埋葬されていたものの、一部の人骨は丁重に一体ずつ埋葬されており、こちらは身分差を想起させる事例として注目された。

 ただし、それはあくまで共同墓地内での差であり、後世の古墳などのように独立した存在ではない。

 よって、身分差といっても共同生活を営むうえで必要なリーダーと、その他大勢という違いではなかったろうか。

●縄文時代にも戦争はあった?

 発掘された縄文人骨の一部に斧や弓矢が原因と思われる傷跡があり、村落同士、利害関係から戦うこともあったと想定される。

 しかし、殺傷痕があるのは縄文人骨(約六〇〇〇体)のうち、一五とごくわずか(勅使河原彰著『縄文時代を知るための110問題』)。戦争はあっても、おおむね平和な時代だったといえる。

 ところが、弥生時代になって明確な身分差が生じ、競争社会になっていくと、戦争が紛争解決手段として用いられるようになるのである。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。
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