「土偶の正体は植物」説が浮上中、縄文時代「これが7大新常識だ!」 (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
写真はイメージです

 新説相次ぐ日本史の中でも、これまでの常識が大きく覆されてきているのが日本最古の時代――縄文時代。

 これまで縄文人は家族を中心とした十数人の集団で移動する狩猟生活を送り、富める者と貧しい者の区別がない平等な社会と考えられてきた。

 ところが、彼らは定住して集落を作り、食用のために植物を栽培し、かつ、貧富の差があったことが確認された。

 また、女性をかたどったとされる土偶のモチーフが植物だったという新説も提唱されている。

 知っているようで知らない縄文時代の新常識を探ってみよう。

●縄文時代の時代区分

 始まりは一万三〇〇〇年前とされてきたが、後期旧石器時代の大平山元遺跡(青森県外ヶ浜町)が発見されて、時代は三〇〇〇年も一気に遡さかのぼった。

 この遺跡は昭和四六年(1971)に町内の中学生が石器を拾ったことが契機になって学術調査が進められ、石器とともに無紋土器の破片がいくつか見つかったのだ。

 土器片に付着していた炭化物から年代を特定し、一万六〇〇〇年前のものと分かった。

 ただし、土器にはこの時代の名称となった縄文(縄目の文様)がなく、これまで通り、一万三〇〇〇年前に始まったという説も根強い。

 一方、終わりは二四〇〇年前頃(紀元前三~四世紀)とするのが一般的。

 いずれにせよ一万年ほど続き、世界史では新石器時代に区分されている。


●縄文時代は「東高西低」だった

 九州地方で稲作が始まり、弥生時代以降、歴史は西日本が先進地域となった関係で「西高東低」が常識となる。

 しかし、縄文時代は逆。その象徴が三内丸山遺跡(青森市)だ。竪穴式住居群跡の他、集会所説や共同住宅説のある大型の竪穴式建物(長さ三二メートルの通称・ロングハウス)などが見つかり、最盛期、集落内に数百人が住んでいたことも判明した。

 この遺跡の発見で縄文時代に人が定住していたことが裏づけられ、さらに世間を驚かせたのは、弥生時代の集落跡、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)の巨大な「物見やぐら」を彷彿とさせる木柱跡が見つかったこと。

「「土偶の正体は植物」説が浮上中、縄文時代「これが7大新常識だ!」」のページです。デイリーニュースオンラインは、歴史戦争カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る