戦国時代は「椅子取りゲーム」から始まった!「明応の政変」後のややこしい争乱まとめ【後編】
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まだ続く争い
【前編】では、明応の政変で最高権力者の座に就いたかと思われた細川政元が命を落とし、彼の養子の澄元と現将軍・前将軍の三つ巴の戦いになったところまで説明しました。
戦国時代は「椅子取りゲーム」から始まった!「明応の政変」後のややこしい争乱まとめ【前編】この三つ巴の戦いを制したのは、前将軍の足利義稙でした。結果、現将軍の足利義澄は近江へと追われることになり、政元の養子・細川澄元も阿波へ追われていきます。
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この事態を受けて、細川政元の養子の一人だった細川高国も将軍に協力します。彼は大内義興とともに幕政を掌握していきました。
しかし争いはまだ終わりません。1518年、政権内部での争いなどもあって大内義興が領国に帰っていったことで、幕府は軍事面での支えを失う形になったのです。
これに乗じたのが、阿波に追われていた細川澄元でした。好機と見た彼は京へと攻め入り、細川高国を追い詰めました。
で、ここで裏切ったのが、将軍の細川義稙です。彼はなんと澄元の味方となったのですが、この争乱では高国が勝利を収めたため、澄元・義稙ともに阿波へ追い払われました。
その結果、細川澄元と足利義稙の二人は、京へ戻ることなく阿波で没します。
これでやっと、細川高国政権が幕政を単独で取り仕切る体制が整ったわけですが、争いはまだ続きます。
終わらない椅子取りゲーム1521年、細川高国は11代将軍だった足利義澄の遺児・足利義晴を12代将軍に立てて、政権確立を果たします。
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ところが今度は、阿波で没した細川澄元の遺児である細川晴元が、三好元長とともに反旗の狼煙を上げました。二人は、あの足利義稙の遺児であり、義晴の弟にあたる足利義維を将軍の後継に立てて堺へと進出したのです。
世代を超えた将軍の椅子取りゲームで、もうめちゃくちゃです。細川晴元は高国を桂川原の戦いで撃破し、高国と義晴は近江坂本へ追いやられました。義維はそのまま堺にとどまって政務を行ったことから、堺公方と呼ばれるようになります(まだ将軍ではない)。
その一方、近江坂本へ追いやられていた前将軍・義晴は、そんな義維との争いを続けました。そして1531年には晴元が高国を摂津で破り、高国は自害に追いやられます。
ここまで来れば、情勢としてはあとは義維が将軍に就任するだけなのですが、しかし堺公方もまた内紛が多く、なかなか就任するチャンスがないまま、晴元とだらだら喧嘩を続けることになってしまいました。
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こうして、椅子取りゲームの椅子のようになってしまった将軍職を巡り、室町幕府は義晴方と義維方の二つに二分され、日本は果てしない抗争が当たり前の乱世・戦国時代へと突入していったのです。
参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan