ザ・北政所(きたのまんどころ)!豊臣秀吉の妻・高台院の敏腕政治家ぶりと影響力
ザ・北政所
北政所(きたのまんどころ)はもともとは平安時代の三位以上の公卿の正室を指す言葉でした。その後、平安中期以降は、摂政・関白の正室の称号となっています。
しかし戦国時代、「北政所と言えばこの人」とさえ言われるようになった、「ザ・北政所」とでも呼ぶべき人物が登場します。豊臣秀吉の正室・高台院(ねね)です。
当時の豊臣政権は、秀吉と彼女の二人三脚で成り立っていたと言っても過言ではありません。そんな高台院が秀吉に嫁いだのは1561年、14歳のときのこと。政略結婚が当たり前だった時代に、二人は当時珍しい恋愛結婚だったと言われています。
秀吉の下積み時代は苦しい生活を送りますが、二人で支え合い、間もなく秀吉は皆さんご承知の通りの大出世を果たします。
誰もが認めた「秀吉の妻」の力ただ、秀吉が非常に女癖の悪い人物だったことも周知のごとくで、彼はそのうち側室を持つようになり、女遊びも激しくなります。
高台院は、そのような夫の所業を黙って見過ごすタイプではありませんでした。なんと秀吉の上司である織田信長に夫の素行の悪さを直訴。信長は、高台院こそが正妻なのだから堂々とすべし、といった内容の返事をしたためています。
この時代、上司が部下に直筆の手紙を送るだけでも異例のことでしたが、それが部下の妻となればなおさらです。つまり信長が気にかけるほど、高台院は影響力のある人物だったのです。
当時の日本の様子を記録した宣教師ルイス・フロイスも、高台院を人格者と称え、彼女の影響力の強さを自著に記しています。
そして1585年に秀吉が関白になったことで、高台院は北政所の位を授かります。
信長をはじめとする多くの大名たちは、なぜそこまで高台院を強く気にしていたのでしょうか。実は秀吉の正室という立場以外の理由がありました。彼女は秀吉と共に政治を取り仕切っていたのです。
その仕事ぶりと晩年高台院が行っていた政務の一つには、朝廷との交渉があったといいます。
また当時、大名の妻子は実質的な人質として大阪で暮らしていましたが、彼らの暮らしや動向に目を配っておくのも高台院の仕事の一つでした。
さらに朝鮮出兵では物流に関する指揮にも携わっていて、秀吉の朱印状だけでなく高台院の「黒印状」が必要な場所もあったようです。
このように彼女は豊臣家の政治に深く関わっていたため、秀吉の死後もその影響力はかなりのものでした。あの徳川家康も、彼女を頼ったことがあるようです。
ちなみに彼女と秀吉との間に子はありませんでしたが、側室の淀殿とその息子である秀頼の後見を務めています。
高台院本人は、秀吉逝去後は政治的に中立の立場を保つことを心がけていました。もちろん、いくら中立と言っても豊臣側の人間であるため、関ヶ原の戦いでは少し危うい立場に立たされますが、その後は出家して高台院湖月心尼の院号を賜ります。
1615年の大阪の陣で豊臣家が滅亡した後も、彼女と江戸幕府との関係は良好だったようです。
高台院は豊臣の滅亡と新時代の幕開けを見守りながら、1624年に死去。その享年は76歳であったとも、83歳であったとも言われています。
参考資料
月刊女性誌「アー・ユー・ハッピー?」公式サイト
戦国ヒストリー
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