「鬼」と呼ばれた県令・三島通庸(みしま・みちつね)と自由民権運動の戦い
「土木県令」にして「鬼県令」?
三島通庸(みしま・みちつね)という人物が明治期に活躍しました。
薩摩藩出身で、山形県令や福島県令を勤めた人物ですが、山形では積極的な土木事業推進で後世に残る建造物を多く建てた土木県令として知られる一方、福島では鬼県令として語り継がれているところもあります。
旧薩摩藩士だった彼が山形の県令として着任したのは、明治9年のことでした。
三島はその在任期間中、道路の整備やトンネルの開通、公共施設・工場の築造、医学教育の発展などに力を入れています。
特に土木工事では、土木県令の名にふさわしい功績を多数残しています。彼はまず中心街を整備し、近代的な洋風建築の県庁を建てます。さらにその周辺に警察本署や役所を集めて、街の利便性の向上と景観の美しさを実現しました。
三島の手になる山形県旧県庁庁舎を利活用した施設「山形県郷土館(文翔館)」
さらに三島は栗小山隧道という山形と福島を繋ぐトンネルを作ります。最新の削岩機を用いて開通したそのトンネルは、当時の日本最長を誇る長さでした。
栗小山隧道は、明治14年の明治天皇東北巡幸に合わせて開通式が行われました。絵画を飾ったり、花火を打ち上げたり、華々しく執り行われた式典は、天皇にも大変喜ばれたといいます。
このように山形の街の発展に大きく尽力した敏腕政治家ですが、なぜのちの着任先では鬼県令と呼ばれてしまうのでしょうか。
増税と自由民権運動明治15年、三島は福島県令に転任が決まります。
当時国内では、政治の中心が旧薩摩藩士や旧長州藩士で占められていることに不満を持つ人が少なくありませんでした。
そんな折に国会開設の話を聞いた板垣退助が自由党を結成し、自由民権運動が活発になっていきます。そして三島が転任した福島県議会は、この自由党員が多数を占めていました。
三島は福島に転任したあとも土木県令の名の通り、インフラ整備のための土木工事に取りかかりました。しかしその分工事費が嵩んでしまい、その負担は福島県民が負うことになってしまいます。
この、インフラ整備による地方税の負担は2.5倍増だったとも言われています。
そんな三島の政治を批判したのが福島県議会の自由党員たちでした。
土木工事を押し進めたい三島は自由党員と対立し、自由民権運動を弾圧していきます。これがのちに「鬼県令」や「鬼の三島」と称される原因になった福島事件です。
さらに自由党員の過激派によって通庸の暗殺計画が立てられました。この事件を加波山事件といい、暗殺に使用される予定だった爆弾が誤爆したことによって三島の命は無事でしたが、さらに波乱を巻き起こします。
加波山事件関係者の墓 (茨城県筑西市下館地区・Wikipediaより)
これらの事件が政府の耳に入ると、自由党員は次々に逮捕されました。三島に対する攻撃は、当時、政府にとって厄介だった自由党員の動きを抑える良い口実になったのです。
三島はその後栃木県令や内務省土木局長、警視総監などの要職を務め、54歳で亡くなりました。
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