NHK大河ドラマ『どうする家康』で嵐・松本潤が熱演!「徳川家康の天下殿」を決定づけた!?豊臣七将「三成襲撃事件」の全真相 (2/4ページ)

日刊大衆

 そして三成が七将の背後に家康がいることを見抜き、逆転の発想でその伏見屋敷へ逃げ込むという展開の逸話が語られ続けてきた。

 だが、ここにきて、その逸話は誤解に基づくものだと判明し、また、歴史学者の白峰旬氏によって新説が提唱され、この事件も見直しが進められている。

 まず、三成が家康の伏見屋敷へ逃げ込んだという誤解がどうして生じたのか、その話から始めよう。

 歴史学者の笠谷和比古p氏によると、元禄時代の末頃に成立した『岩い わ淵ぶ ち夜や話わ』が誤解を招く要因の一つになったという(「豊臣七将の石田三成襲撃事件」/『日本研究』22集)。

 同書によると、まず三成と昵懇の佐竹義宣(水戸城主)が襲撃の噂を聞き、その夜、大坂の三成屋敷を訪ね、「このたびの儀は理を非に曲げても家康公に願い入れるほか手はありません」と述べた。

 そして、義宣が女乗物(身分の高い女性用の籠)に三成を載せて自ら同道して伏見へ上り、家康に庇護を求めるのだ。

 一方、当時の家康の伏見屋敷は城と宇治川を挟んだ対岸の向島にあったものの、七将がそこへ押し掛けて三成の引き渡しを求めると、家康は「身の置き所がなくこの家康を頼って来たのだから、日頃不快に思っている相手でも引き渡すわけにはいかぬ」と答えたという。

 確かに以上の話からは、三成が家康の伏見屋敷に逃げ込んだと読み取れる。

 ところが、家康の侍医がしたためた『慶長年ね中卜斎記』や『慶長見聞書』(江戸時代初めの随筆集)などと、実際に事件が発生した年代に近い史料はこぞって、三成が伏見城内の自身の屋敷に籠ったと書いているのだ。

 年代に近い史料を優先するのは歴史学の常套だ。とはいえ、三成が家康に庇護を求めたとするほうが話としては面白い。それはまた、家康の度量の大きさを示す逸話にもなる。

 よって、この話が一人歩きして広まっていったのであろう。

 一方、白峰氏(前出)は、公卿や御所の女房、さらには著名な僧侶らの日記(いわゆる一次史料)をつぶさに検証し、そこに「襲撃」という文字が見当たらないため、襲撃計画そのものを否定している。

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