NHK大河ドラマ『どうする家康』で嵐・松本潤が熱演!「徳川家康の天下殿」を決定づけた!?豊臣七将「三成襲撃事件」の全真相 (3/4ページ)

日刊大衆

 以上の日記類から分かるのは大坂や伏見で「雑説」があり(『言と き継つ ぐ卿記』)、伏見で三成と七将の「申合」があった(『舜日記』)ということ。白峰氏は「申合」を「言い争い」という意味に解している。

 それでは、両者は何をめぐって「言い争い」していたというのか。

 この少し後に、朝鮮出兵の際、三成の影響下にあった軍目付の熊く ま谷が い直な お盛もりらが処罰されており、そこからも「言い争い」の原因はやはり、朝鮮出兵での七将と三成らとの対立にあり、奉行や目付側に何らかの問題のあったことが想定される。

■集団訴訟事件の仲裁が家康の地位を高めた!

 閏三月一〇日付の『義演准后日記』にはずばり、「訴訟」という表現が出てくる。通説では閏三月四日に七将の襲撃計画を聞いた三成が伏見へ逃れたというが、以上のことから伏見の三成は四日以降、七将から朝鮮出兵の際の不当な態度を問題にされ、訴えられていた事実が見えてくる。

 七将たちが訴訟を有利に運ぶ示威行動として、軍勢で伏見城を囲むようなことはあったかもしれないが、あくまで問題の本質は訴訟にある。『多門院日記』によると、三成と同じ奉行職の増田長盛と前田玄以も「一所(同じところ)」に籠ったと記載されている。どこに籠ったのかまでは不明だが、三人が伏見城内にいたのは間違いない。

 白峰氏は「籠った理由は、政治的な謹慎という意味にとらえられる(軍事的抵抗であれば、三成一人が籠もればよかったはずである)」としており(『新視点 関ヶ原合戦』)、三成個人に対する武装襲撃というより、この事件は奉行衆への集団訴訟と見るべきだろう。

 閏三月七日の時点で福島正則らが三成に腹を切らせようとしたという風聞があり(『北野社家日記』)、そのことが後世、「襲撃」計画があったと誤解されるベースになったのかもしれない。

 いずれにせよ、この訴訟問題は、三成の引退と居城佐和山城(滋賀県彦根市)への蟄居で決着がついた。明確に記されているわけではないものの、『多聞院日記』に「扱い(仲裁)」という表現があるため、誰かが仲裁したのは確実で、当時の政治バランスから見ても家康をおいて他に考えにくい。

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