片山哲ってどんな人?終戦直後の日本復興に一役買った日本社会党の初代委員長
クリスチャンの法律家
戦後の社会党出身の政治家で、総理大臣になった人に片山哲(かたやま・てつ)という人がいます。この人の人物像や実績について辿ってみたいと思います。
片山哲は日本の第46代内閣総理大臣を務めた人物です。1887年に和歌山県田辺市に生まれ、地元の中学校を卒業後、現在の京都大学である第三高等学校に進学。その後東京帝国大学独法科を卒業し、弁護士として活躍しました。
彼はクリスチャンの母親の影響で幼いころからキリスト教の思想に触れ、父親からは孔孟の教えと老荘思想の教えを受けていました。弁護士としてのポリシーも、そうした影響の中で培われていきました。
彼は法律相談所を開設すると、労働者や女性などの弱い立場に置かれる人々の事件を多く扱います。そうしたなかで片山は、社会の不公平を正すためには法律だけでなく、政治的な働きが必要であると考えるようになりました。
そして間もなく政界に入ると、社会民主主義の無産政党である社会民衆党の設立に関わり書記長に就任します。
衆議院議員に初当選したのは1930年のことで、旧神奈川2区から出馬し、以降通算10回の当選を果たすこととなります。
戦後は日本社会党トップ、そして総理大臣に1945年に太平洋戦争が終結し、右派・中間派・左派が集まって成立した日本社会党が結成されると書記長に就任し、翌年には初代委員長に選出されました。
さらにその翌年1947年の総選挙では、143議席を獲得した日本社会党が衆議院議会の第一党となり、首相指名選挙ではほぼ満場一致の票を得て内閣総理大臣に就任しています。
片山哲内閣の国務大臣任命式後の記念撮影(Wikipediaより)
しかし、片山本人は自分が一国の舵取りを担うことを想定していなかったと言われており、加えて民主党・国民協同党との連立政権であったため親任式までに閣僚選出がまとまらず、当日は片山の一人内閣で凌ぐことになります。
民主党・国民協同党との意見調整はたびたび難航し、党内の左派が造反を起こすなど政権は早くに運営が立ち行かなくなり、片山内閣は8か月という短い期間で内閣総辞職に至ってしまいました。
片山は党内の派閥を抑えることができなかったことや、GHQのいいなりであったことから「クズ哲」などとあだ名されることもありました。
しかし、戦後間もない混乱の処理にあたり、新しい憲法の下で警察制度の民主化のために警察法を制定し、婚姻の自由や男女平等を規定するための民法改正を実現させています。さらに災害救助や児童福祉、職業安定など、国民の生活に関する政策も多く成立させました。
また、戦後の食糧難を解決するべくGHQに輸入食料の使用を掛け合うなどしており、片山の政治は戦争でダメージを負った国民の生活をなんとか立て直そうと試みたものとも言えます。
歴史的には目立たないものの…片山は内閣を退陣した後も、中華人民共和国の毛沢東や周恩来と会見を行い日中国交正常化を求めたり、国内では憲法擁護、政界浄化を訴えるなど精力的に議員活動を続けます。そして1978年、老衰により90歳で亡くなりました。
片山哲は総理大臣も務めていますが、野党出身の短命内閣だったこともあり、あまり目立たないところがあります。しかし、戦後アメリカによって占領された日本で政治の舵を取り続けるという、重要な役割を果たしました。
その人柄は清廉で、野党の重鎮としても長い間存在感を示し続けた人でした。彼の思想は、ドロドロした政治の世界とは相性があまりよくなかったのかも知れません。
参考資料
宇治敏彦/編『首相列伝 伊藤博文から小泉純一郎まで』東京書籍・2001年
八幡和郎『歴代総理の通信簿』PHP新書・2006年
株式会社ジー・ビー『surprisebook(サプライズブック) 総理大臣 全62人の評価と功績』株式会社 アントレックス・2020年
レキシル
【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】
歴代総理の胆力「片山哲」(1)
歴代総理の胆力「片山哲」(2)
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