分相応が一番!本多正信が徳川家康にお願いした“ある事”とは?【どうする家康】

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分相応が一番!本多正信が徳川家康にお願いした“ある事”とは?【どうする家康】

皆さんの周りにいませんか?「あ~あ、もっとおカネがあればなぁ……」とお嘆きの方。もしかして、皆さんご自身がそうかも知れませんね。

確かに、おカネや財産はいくらあっても使い道に困らないし、あればあるほどいいように思えます。しかし、分不相応な財産によって生活ひいては人生が狂ってしまった事例は、枚挙に暇がありません。

本多正信肖像。佐々木龍泉筆

人間万事、分相応が一番幸せ。戦国武将たちもそう考える者がいたようで、今回は徳川家康(とくがわ いえやす)に仕えた本多正信(ほんだ まさのぶ)のエピソードを紹介。

彼にとって分相応な財産とは、果たしてどれほどだったのでしょうか。

「ご加増は3万石までに」その理由は?

本多正信は天文7年(1538年)に生まれ、若くから家康に仕えたものの、三河一向一揆(永禄6・1563年~同7・1564年)で主君に叛旗を翻してしまいます。

一揆の鎮圧後、寝返った家臣たちの多くが許される中、正信は三河を去って各地を放浪。数年から十数年にわたり雌伏の時代を過ごしました。

(正信の帰参時期については諸説あり、早ければ元亀元・1570年の姉川合戦ごろ、遅くとも天正10・1582年の神君伊賀越えまでには家康に再仕官している模様)

やがて大久保忠世(おおくぼ ただよ)のとりなしによって帰参が許されると、政治能力を活かして頭角を現します。

後に政敵となった忠世の嫡男・大久保忠隣(ただちか)を改易にまで追い込んだ正信は向かうところ敵なし、徳川幕閣の筆頭格として活躍したのでした。

しかし、そんな正信に与えられた所領は相模国玉縄藩1万石(一説には2万石ほか)。天下の政治を舵取りする身にしては、ちょっと少ない気がします。

でも、正信は自分の石高に満足しており、息子の本多正純(まさずみ)に常々こう言っていたとか。

「よいか息子よ。これからそなたも奉公に励み、ご加増の話があるやも知れぬ。しかしお受けするのは必ず3万石までとせよ。過分の禄高は必ずやそなたのためにならぬ」

そして、家康に対してもかねてお願いしていたと言います。

家康にお願いする正信(イメージ)

「上様。我が奉公に報いたいとお思い下さるならば、どうか我が子孫には3万石を超えるご加増はご遠慮いただきたい」

所領を増やしてくれと願う者はたくさんいる中で、逆に増やさないでくれと願うのはどうした訳でしょうか。

「人間は分相応が一番にございます。我が器量において3万石を超える所領は存分に治めること叶わず、当家においても領民においても不幸なこと。遠からず身を亡ぼす元となりましょう。ゆえにご加増は3万石までお願い申し上げた」

まぁ、それが当人の希望なら……ということで家康は正信に加増することはありませんでした。

終わりに

しかし元和2年(1616年)4月17日に家康が世を去り、後を追うよう6月7日に正信も世を去ると、正純は遺言に背いて5万3千石(下野国小山藩)に加増を受けてしまいます。

更に元和5年(1619年)、下野国宇津宮藩15万5千石へ加増されました。さしたる武功もないのに過分の厚遇……周囲から怨みを買った正純は、やがて失脚の憂き目をみることに。

失意の正純(イメージ)

日だまりを 恋しと思う うめもどき 日陰の赤を 見る人もなく
※正純の辞世(陽も当たらない部屋に軟禁されていたとか)

【意訳】誰にも顧みられない日陰で咲く梅擬(うめもどき)の花は、どれほど陽の光を恋しく思うだろうか。

最期は幽閉同然にして世を去った正純(その息子・本多正勝は父に先立って死去)。時に寛永14年(1637年)3月10日、今際の床で父の遺言を思い出したのでしょうか。

身に余る財産はかえって身を亡ぼす。目先の欲にとらわれず、自分や子らの器量をよく見極めた正信の慧眼が光るエピソードでした。

※参考文献:

煎本増夫 編『徳川家康家臣団の事典』東京堂出版、2015年1月 藤野保『徳川幕閣』中公新書、1965年12月

トップ画像: NHK大河ドラマ『どうする家康』公式ページより

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