三河一向一揆の後どこ行った?本多正信の徳川家出奔から再仕官に至るまでの放浪旅【どうする家康】 (2/4ページ)

Japaaan

しかし、本多正信だけは家康に降伏せず、妻と子(本多正純)を残して三河国を去り、大和国(現在の奈良県)にいる松永久秀に仕官しました。反対に、正信と共に一揆勢だった弟の本多正重は、一揆鎮圧後に家康の元に戻っています

ちなみに、妻子は大久保忠世の元に保護されました

加賀国へ流浪

松永久秀/Wikipediaより

正信は久秀からは「徳川の侍を見ることは少なくないが、多くは武勇一辺倒の輩。しかしひとり正信は剛にあらず、柔にあらず、卑にあらず、非常の器である」との評価を受けました。

久秀は正信の非凡な才能を見抜いていたことがうかがえます。

しかし、永禄8年(1565)の永禄の変で足利義輝が暗殺されると、久秀の元を去りました。その後は、加賀国(現在の石川県南部)へ渡ったと言われています。

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