勝者は家康か秀吉か?小牧・長久手の戦いの歴史上の位置づけを考察する【後編】
講和・和睦へ
【前編】では、信長の遺児・信雄と徳川家康の連合軍が、ポスト信長の地位を狙う羽柴秀吉と激突した経緯と、名高い1584年の小牧・長久手の戦いの流れを追っていきました。
勝者は家康か秀吉か?小牧・長久手の戦いの歴史上の位置づけを考察する【前編】この一連の戦いでは、秀吉側は犬山城を攻め落とし、伊勢の松ヶ島城、尾張の加賀野井城、竹鼻城などを攻撃しています。その一方で家康も、秀吉の三河攻めを察知して羽柴秀次・池田恒興・森長可の三軍を打ち破るなどしており、両者は拮抗していました。
この戦いは3月に始まり、6月には秀吉は大阪城へ戻り、家康は清須城へと戻ります。その後も大きな戦いは起こらず、局地的に小さな戦いが散発した程度で、ついに大勢が決するには至りませんでした。
完全な膠着状態です。9月にはもはやこの戦は持久戦の様相を呈し、ついに秀吉はしびれを切らして、信雄・家康の連合軍との講和を考えるようになります。
ようやくこの戦いが終息に向かっていったのは11月になってからでした。織田信雄の方が、伊勢半国と伊賀を秀吉に譲渡することになり、ここに和睦が成立したのです。
やっぱり勝者は秀吉また家康の側も、あくまでも信雄を支援するという立場だったことから、これ以上戦闘を続ける理由はなくなります。彼も和睦に応じました。
さらに秀吉は、他にも和睦の条件として、信雄・家康の両者から人質を取ります。
ここで家康が差し出したのが次男の於義丸(結城秀康)で、彼は「秀吉の養子」という名目で大坂へ送られました。細かく言えば、徳川方としては「秀吉の養子」という認識なのですが、秀吉の側では「人質」として捉えていたということです。
こうして見ていくと、小牧・長久手の戦いは、軍事的には引き分けに終わったと言うべきですが、政治的な勝者は秀吉だったと言えるでしょう。
私たちは後の歴史を知っているので、豊臣家がその後衰退していくことを知っていますが、この時点では、やはり秀吉には勝利の女神がついており、徳川家康はあくまでも「臥薪嘗胆」の立場だったと言えるでしょう。
また、信雄と家康がそれぞれ単独で秀吉と講和を結んだことで損害を被ったのは、家康に加勢した紀伊の根来寺、雑賀衆、四国の長宗我部家でした。それまではバックに家康がつく形で秀吉に対抗していた彼らでしたが、後ろ盾がなくなったことで、秀吉に立てついたという結果だけが残ることになったのです。
このため、それぞれその後の紀州攻め・四国攻めによって、1585年8月までには秀吉によって討伐されたのでした。
小牧・長久手の戦いは明確な勝者が存在しない戦闘だったと言えますが、こうして歴史の流れを見ると、やはり羽柴秀吉がその後の天下統一に向けて地盤を固めていく足がかりの一つだったと言えるでしょう。
参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan