勝者は家康か秀吉か?小牧・長久手の戦いの歴史上の位置づけを考察する【後編】 (1/3ページ)

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勝者は家康か秀吉か?小牧・長久手の戦いの歴史上の位置づけを考察する【後編】

講和・和睦へ

【前編】では、信長の遺児・信雄と徳川家康の連合軍が、ポスト信長の地位を狙う羽柴秀吉と激突した経緯と、名高い1584年の小牧・長久手の戦いの流れを追っていきました。

勝者は家康か秀吉か?小牧・長久手の戦いの歴史上の位置づけを考察する【前編】

この一連の戦いでは、秀吉側は犬山城を攻め落とし、伊勢の松ヶ島城、尾張の加賀野井城、竹鼻城などを攻撃しています。その一方で家康も、秀吉の三河攻めを察知して羽柴秀次・池田恒興・森長可の三軍を打ち破るなどしており、両者は拮抗していました。

秀吉の水攻めで有名な竹鼻城

この戦いは3月に始まり、6月には秀吉は大阪城へ戻り、家康は清須城へと戻ります。その後も大きな戦いは起こらず、局地的に小さな戦いが散発した程度で、ついに大勢が決するには至りませんでした。

完全な膠着状態です。

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