毛利元就に尼子に大内…誰もが血眼になって奪い合ったその山の名は「石見銀山」【前編】 (2/3ページ)
銀(と金・銅も)は当時の日本で、生糸などの貿易対価として中国へ輸出されていました。また、いわゆる南蛮人たちも多くがこれを目当てに日本へ渡ってきています。
その中でも、銀は特に見栄えが良く、劣化しにくいうえに加工しやすいということで、貴金属あるいは通貨としてそのまま使われたりしました。
争奪戦が始まるこのように見ていくと、石見銀山は世界規模の利益を生み出す銀山だったことが分かります。もともと石見銀山が発見されたのは鎌倉時代で、本格的な採掘が始まったのは16世紀、石見の領主だった大内氏によるものでした。
1533年には、博多の大商人である神谷寿禎によって技術者が招かれ、朝鮮半島由来の技法である灰吹法が用いられるようになります。
灰吹法は、銀を採掘現場で精錬することでより効率的に採掘を進めることができる技法で、これが全国の鉱山に伝わると、産出量はさらに増えたといいます。
このあたりから、大名による石見銀山の奪い合いがスタートします。