虚々実々!若き日の徳川家康が臨んだ「三方ヶ原の戦い」にまつわる逸話の真相は?【後編】 (2/3ページ)

Japaaan

しかし、後の江戸幕府公認の資料である『武徳大成記』『武功雑記』によると、城に逃げ帰った家康は、まず「自分は無事である」ことを城内で家臣に必死にアピールしていたそうです。しかも偽物の信玄の首級を用意し、ウソの勝利宣言までしていました。

浜松城

そして、徳川軍はまだ抗戦可能だということを敵に見せつけるために、銃を城外に撃ち放ちます。それを見た敗残兵たちもどんどん城に戻ってきました。彼らが城に戻れるよう、浜松城の門は開けてあったのです。

また、銃をパンパン撃たれている状態では、武田軍もうかつには近寄れませんでした。

以上の経緯を、あたかも家康が諸葛亮公明のように「空城の計」をやってのけたかのように後世に伝えたのは、『四戦紀聞』という史料です。これはもともと家康礼讃を目的とした創作物語です。

失禁エピソード、そして「しかみ像」

あとは、三方ヶ原の戦いにまつわるエピソードと言えば有名な失禁と顰(しかみ)像に関するものでしょう。

まず敗走時に恐怖のあまり失禁してしまい、便を「これは味噌だ」と家臣に言い訳をしたという逸話ですが、これも俗説で、証拠となる史料は一切ありません。

また、この戦いを教訓とするために、彼は顔をしかめた自画像を絵師に描かせて、この絵を生涯座右に置いていたと言います。

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