名前のインパクト強烈!鎌倉の片隅に祀られた北条秀頼とは何者だったのか

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名前のインパクト強烈!鎌倉の片隅に祀られた北条秀頼とは何者だったのか

鎌倉市山崎にある妙法寺(日蓮宗)の境内に、こんな石碑を発見しました。その名も「北條秀頼神社(ほうじょうひでよりじんじゃ)」。

鎌倉・山崎妙法寺の境内に建立された北条秀頼神社石碑。筆者撮影

すごくインパクト強烈な名前なんですけど……鎌倉だから北条氏、あるいはここからほど近い玉縄城に拠った玉縄(たまなわ)北条氏の縁者でしょうか。

果たして北条秀頼とは何者なのか、さっそく調べてみましょう(こういう石碑を見つけると、興奮してきませんか?しますよね?)!

刻まれた文字を読んでみる

石碑は他にも「家臣三百五十人」とあり、多くの家臣を抱えた有力者だったようです……と、その脇に「他一名」と小さく刻まれていました。

石碑の左下に刻まれた「外一名」……これ必要?

いやいや、そこは「三百五十一人」とか「三百五十余人」でいいんじゃないかと思います。

何と言いますか、卒業アルバムの撮影当日に欠席してしまった子の写真が、左上辺りに丸く加えられているような……自分なら、むしろ載せないで欲しいところ。

あるいは家臣でない他家の者が一名(例えば客将など)いたのかも知れません。いや、それならばちゃんと名前を載せてあげて下さい。

さて、石碑の表面はこんなものにして、裏面を見てみますと……。

命日二月十三日
建立昭和十年二月吉日
志主 加藤■(和?利?)喜太郎

どうやらこの北条秀頼なる人物が2月13日に亡くなったのでしょう。

その遺徳を慕った加藤氏が、昭和10年(1935年)に石碑を建立。北条秀頼主従+1名を御祭神に「北条秀頼神社」として祀ったようです。

ちなみに、この加藤氏は加藤利喜太郎(りきたろう)あるいは加藤和喜太郎(わきたろう)の単独名か、あるいは利喜(としかず)あるいは和喜(かずよし)と太郎(たろう)の連名なのか、そこの辺りも興味が惹かれるところ。

察するところ、いつぞや(名前の雰囲気から戦国時代?)のある年2月13日に主従351名と他1名が自害したか討死したかの英霊を祀ったのでしょう。

出来ればお寺の方に詳しい由来や伝承などを伺いたいところですが……この日は残念ながら撤退しました。

天神山の城主だった?

さて、その後「北条秀頼」でググってみたところ、出て来たのは豊臣秀頼(とよとみ ひでより)や北条氏がほとんど。

もうちょっと捻ってみようと「玉縄北条氏」で調べてみても芳しい成果は得られず。歴代の玉縄城主などを調べても2月13日に亡くなった者は見つかりませんでした。

妙法寺の背後にそびえる天神山城跡。Googleマップより

なお、山崎妙法寺の背後にそびえる天神山(てんじんやま。北野神社を祀っている)はかつて玉縄城の出城(砦)であったとされ、天神山城遺跡からは古代から近世まで様々な遺構や遺物が出土しています。

山崎
もと鎌倉郡山崎村・洲崎村。円覚寺塔頭黄梅院領。東は台、西寺分、南梶原、北柏尾川(戸部川)を限り、天神山の南東に位置する「山崎狭隘」の要衝の地。新田義貞鎌倉攻めの「洲崎古戦場」に含まれ、北野天神社を祀る天神山は砦とみられる。……

※『鎌倉の地名由来辞典』

もしかしたらこの北条秀頼とは天神山城主で、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)による北条征伐に際して奮戦・討死あるいは自害したのかも知れません。

そして気になるのが「他一名」。果たして何者だったのか、今後も調査してみたいと思います。

※参考文献:

槇野修『決定版 鎌倉の寺社122を歩く』PHP新書、2013年1月 三浦勝男 編『鎌倉の地名由来辞典』東京堂出版、2005年9月 かまくら春秋社 編『鎌倉の寺 小事典』かまくら春秋社、2002年6月 鎌倉市埋蔵文化財緊急調査報告書

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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