「千年の都」と呼ばれる京都の原点!平安京と造営を巡る「5つの謎」 (2/3ページ)

日刊大衆

この自然災害も祟りと考えられたのだろう。

 しかし、桓武天皇はただ祟りを恐れただけではない。長岡京にはそもそも水害が起こりやすい弱点があり、それが現実のものとなって、安全な都への遷都を急がせたと考えられる。

 とはいえ、遷都には巨額な予算が必要なため、スポンサーがいなければ決意しなかったのではなかろうか。

 そのスポンサーが桂川一帯を本拠とする秦氏。彼らは渡来した五世紀頃から朝鮮半島由来の殖産事業で朝廷に仕え、財を成していた。

 天皇の母が渡来系の一族の娘( 高た か野のの新に い笠がさ)ということもあり、その親近感もあって秦氏の力を頼りにしたのだろう。

 遷都の地がなぜ葛野だったのか――そこが秦氏の勢力圏だったからだ。現代流にいうなら、その財力を最大限に活かし、秦氏が本拠地に首都を誘致したといえよう。

 平安時代半ばの史料『天暦御記』によると、大内裏(天皇の居所である内裏と諸官庁が置かれた一区画)は、もともと秦河勝の居宅跡で、紫宸殿(内裏の正殿)前庭の橘の木もその邸宅にあったものだという。

 河勝というのは飛鳥時代の人で京都最古の寺である広隆寺を建立したことで知られる(前号参照)。『天暦御記』は遷都から一五〇年ほど経ったあとの史料だから、書かれた内容が史実かどうかは微妙だが、遷都に秦氏の尽力があったことを窺わせる話ではある。

 しかも、葛野に遷都しても長岡京にあった桂川の港はそのまま使えるから水運の便は保てるし、葛野の東には琵琶湖があり、その水運も活用できる。

 それにも増して、琵琶湖沿いには、桓武天皇が尊敬する天智天皇が営んだ大津京(滋賀県大津市)もあった。

 こうして遷都の年の一〇月に詔を発し、新たな都を「平安京」と名づけ、それまで平城京の北にある平城山の「背」に当たる国でしかなかった「山背国」を「山城国」と改めたのである。

■遷都から150年後に過疎と過密地域に二分

 平安京はどのように造営されたか

 平安京は東に賀茂川、西に桂川に挟まれた平地に造営された。およそ東西が四・五キロで南北が五・二キロ。

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