死後の世界を説くのは現実逃避か?現実を直視させるのは良いことか? (2/2ページ)

心に残る家族葬



また、重箱の隅をつつくようだが、その家には位牌が置いてあった。父親は位牌を受け取る際に僧侶から何らかの法話を聴いたはずである。おとぎ話だと流していたのだろうか。今後法事を執り行う際に僧侶が語る物語について、子供たちになんと説明するのだろう。

■死後生を欣求してきた人類

ひろさちやの本で読んだがポリネシアの人たちは死ぬ前に、自分が死んだらあの星に生まれると好きな星を選び安らかに死んでいくそうである。見上げれば満天の星が輝き、そのひとつひとつが家族であり友人たちだ。美しい話だと思う。もう会えないどころではない。ポリネシアの人たちは死者と共に生きているのである。
古今東西様々な文明で死後の行方が説かれてきた。チベットやエジプトには死後どうなるのかを描いた「死者の書」があり、日本にも「往生要集」などがある。現代社会ではこれらは死の恐怖から逃れたい故の創作ということになる。しかし科学で証明できないを理由に問答無用に否定してよいものか。世界がこの世だけなら、人間が頂点の存在となる。神様も仏様もいないなら、人知を超えたものへの感謝と畏れの心、畏敬の念は生まれない。

私たちは命日、お彼岸に墓参りを行い、お盆には死者が帰ってくるための準備をする。伝統行事だから仕方なく形だけなぞっているわけではない。確たる信念はなくても、どことなくなんとなくでも、心のどこかであの世とあの世にいる死者の存在を信じている。それを逃避、ごまかしとするのは暴論ではないだろうか。ドラマの最後で子供が母の写真と位牌に手を合わせる場面があった。父親は満足そうだったが、彼女は何に対して手を合わせていたのだろう。

■知性の傲慢

人間は死と向き合い、死を直視し、死を考えてきた。そして多くの物語が生まれた。唯物論者も「死は無である」と信じているに過ぎない。それも物語のひとつである。死後の続きはあるのか。誰も死んだことがない以上真実はわからないのだ。少なくとも死後生を語ることをごまかしであるとするのは、現代知性の傲慢というものだろう。

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