足利義昭、織田信長と出会う!やがて袂を分かつ二人の蜜月と野心【前編】
織田信長の偉大さ
日本史で、応仁の乱から永禄の変までの流れを見ていくと、当時は権力争いによって人が死ぬことが当たり前の世の中だったことが分かります。
考えてみれば、こうした傾向は戦前まで続いていました。昭和初期までの日本の政治と権力抗争の歴史は暗殺の歴史でもあると言えます。
政治家による権力争いはもちろん今もありますが、少なくともそれによって簡単に命を奪われることがない時代というのは、もしかすると日本史上驚くべきものなのかも知れません。
16世紀の日本の歴史における織田信長のすごさというのは、こういう観点から見ていくことでさらに深く理解できそうに思われます。
彼が果たした畿内支配が最初にあり、その地盤が豊臣政権に引き継がれて、最終的に徳川家康による幕藩体制が確立されたわけです。
これは戦国大名が天下人として権力維持を目指した流れであると同時に、権力争いが起きないようにすることで人がむやみに死なない時代を作る流れでもあったと言えるでしょう。
となると、権力争いに明け暮れていた畿内の大名たちをねじ伏せて、織田信長が力をつけていった経緯が気になるところです。決定的だったのは、永禄の変によって時の将軍・足利義輝が暗殺されたことでした。
放浪する「次期将軍」足利義輝の弟だったのが、足利義昭です。彼は永禄の変からの流れで一度は捕らわれたものの、義輝の家臣だった細川藤孝たちに助けられました(ちなみに細川藤孝は、かの細川護熙の先祖です)。
義昭は藤孝に説得され、次期将軍を目指します。そして各地の大名たちを説得し、抗争に明け暮れていた彼らを和睦させて自らの上洛を助けるよう求めます。
が、大名たちは自分の国のことで手一杯で、それに応じる余裕はありませんでした。
義昭は各地を転々として協力者を探し続けますが、その間に、永禄の変の首謀者である三好三人衆に担がれた足利義栄が14代将軍になります。
そんな中で、義昭が出会ったのが明智光秀でした。光秀によって、織田信長が美濃攻めで手こずっていることを知らされた義昭は、斎藤・織田の和睦を実現させます。そして、信長の勢いを利用して上洛することを考えたのです。(【後編へ続く】)
参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan