織田信長・足利義昭の関係悪化は「十七カ条の異見書」ではなかった?現代の新説について解説【どうする家康】 (2/3ページ)
さらに信長は、それを義昭に提出するだけでなく、各国の大名にも送っていたのです。義昭はこれでプライドを傷つけられ、信長を討つことを決めた、というのがこれまでの見方です。
織田信長、包囲されるその後の展開は周知のごとくで、1573年に義昭は反信長派の大名たちに挙兵を呼びかけます。これには武田信玄、浅井長政、朝倉義景、比叡山延暦寺、本願寺などが含まれていました。
こうして信長包囲網が敷かれ、さすがの信長も慌てますが、彼は京の二条を焼き討ちして義昭へ講和を迫ります。そして一時停戦となった後、武田信玄が病没したことで勢いを盛り返した信長は、宇治の槇島城に立てこもっていた義昭を攻め、降伏させると京から追い出したのでした。
原因は「十七カ条の異見書」?事の経緯は以上の通りですが、そもそも信長と義昭が決別した理由は十七カ条の意見書だけではなかったのではないか、と近年の研究では考えられるようになっています。
では本当の理由は何なのかというと、三方ヶ原の戦いで信長が援軍を送ったのに家康が負けたことで、義昭の周囲では信長よりも武田信玄を支持する者が増えたからではないか、という説があります。
他にも、信長が武田信玄の方に気を取られていたため、義昭は京の警備を信長に任せておくことを不安に感じたのではないか、とも言われています。