織田信長・足利義昭の関係悪化は「十七カ条の異見書」ではなかった?現代の新説について解説【どうする家康】 (1/3ページ)

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織田信長・足利義昭の関係悪化は「十七カ条の異見書」ではなかった?現代の新説について解説【どうする家康】

対立のきっかけ

織田信長と、室町幕府の15代将軍である足利義昭は、最初こそ蜜月を保っていたものの、のちに敵対するようになりました。

織田信長の銅像

今までの日本史の見方では、二人の関係が冷え込むことになった大きなきっかけは「十七カ条の異見書」だと言われてきました。そして両者は衝突し、義昭は京から追放。室町幕府はここで滅亡したとされています。

しかしこの経緯についても、最近は新しい説や別の見方が唱えられています。

二人が対立するきっかけになった十七カ条の異見書は、1572年9月に信長が義昭に対して提出したものです。

足利義昭と関わりが深い安国寺の山門

そこには、「信長がこれだけ勧めても朝廷へ参内しないとは何事か」「農民もあなたを『悪御所』と呼んでいる理由をよく考えるように」などと、義昭の行動を厳しく批判する内容が書いてありました。

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